2002.03.11 レイラインと結界

 今取り組んでいる「伊勢・元伊勢ライン」では、単にレイラインと言っても、そこには多数のそして多様なレイラインが混在している。歴史的にもっとも古い元伊勢は、内宮の位置が御神体である「日室岳」の頂上に夏至の日の太陽が沈む位置にあるように、太古からの太陽信仰に根ざしたレイラインの存在がうかがえる。その元伊勢が隠蔽されたように見える原因については、本編のほうを参照してもらうとして、元伊勢の創建から80年あまりを下った伊勢も、二見ガ裏から登る夏至の日の力強い太陽の光を神域へ導きいれるような構造から、暦の役割と同時に、自然が持つ力を集約し増幅するためのシステムとして用いられた、やはり太陽信仰に根ざしたものとして理解できる。

 ところが、この伊勢と元伊勢を結ぶラインをベースに、宮城の鬼門を封じるように張り巡らされたレイラインは、伊勢や元伊勢にローカルで見られるレイラインとは目的も性質も違う。京都のレイラインは、陰陽道を篤く信奉していた桓武天皇の意図に深く結びついている。そもそも平安京の創建については、天智天皇系の皇族から天武天皇系の皇族に権力が移り変わる中で、醜い政争が繰り返され、平城京が怨念渦巻く場所になってしまったことが発端となっている。天変地異や疫病に見舞われた平城京を捨てて、長岡京を新たに造営した桓武天皇は、しかし、この長岡京にも落ち着くことはできなかった。

 桓武天皇がさらなる政争の果てに死に追いやった早良親王の影が、新都「長岡京」を覆う。嵐が遅い、洪水が新しい都を洗う、そして、桓武天皇の周囲では、次々に人が亡くなっていく。桓武天皇は、早良親王の祟りとして恐れおののき、ついに造営から10年あまりで、長岡京を放棄し、新たに平安京を開く。徹底した魔よけが施された平安京は、以後1000年以上にも渡って、日本の中心としてありつづける。同じように、稀代の風水・陰陽師である天海僧正が、そのノウハウを駆使して築き上げた「江戸=東京」の例もある。

 こうして見ると、レイラインは、古代の太陽信仰などに根ざしたプリミティヴなものと、桓武天皇や天海僧正の例のように、都市や権力を守護するための「結界」として築かれたものに大別できるだろう。後者の結界や運気を呼び込むといったたぐいの風水や陰陽道に根ざしたレイラインは、文献資料もけっこうあり、比較的理解しやすい。ところが、太古に築かれたプリミティヴなレイラインは、それがいつ作られたのかも、誰が作ったのかも皆目検討がつかない。しかも、日本だけでなく、世界中に同様のレイラインが存在していて、その意味では、謎の比重は、前者のほうが大きいといえる。

 中世から近世にかけては、日本でも、明確にレイラインの意識があり、その工学も持ち合わせていた。それは桓武天皇や天海僧正、さらには空海といった人間の残したものを見ればわかる。それを手がかりに、彼らが利用したレイラインの工学を復活させられれば、太古の人間たちの価値観や、もしかしたら、物質文明が行き詰まった現在を打開する新しい何ものかが見えてくるような気がしている。

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