2002.06.10 息栖神社のお稲荷様


 本編の『鹿島トライアングル』の中で紹介している息栖神社のお稲荷様、そのお稲荷様は、元々現在の息栖神社の境内にあったのではなく、別な場所にあったものを祀りなおしたものだという情報をいただいた。

「あの稲荷は、私の父と祖父が息栖神社の境内に移動したもので前々からあの場所にあったものではありません。もとの場所は、神社の手前の森の奥にあったそうです。離れにあっては、寂しかろうと神社の境内に移したそうです。稲荷の鳥居の近くに小さな石碑がありますが、そこに祖父と父の名前が刻まれているはずです。確か神社建立か何かの石碑だと思います。父はまだ元気なので稲荷があった場所も聞けば分かると思います。このページに行きついたのは、神栖町の資料に「日本三霊水で知られる忍潮井」とかいてあり、あとの2つを知りたくて検索した結果、出てきたのがこのページでした。興味のあるジャンルなので地元が出ていてうれしくなりました。大変光栄です」

 このmailをくださったのは、息栖神社の地元神栖町に住んでおられる太田さん。まさに、当事者から直接情報が寄せられるというのは、インターネットならではだろう。太田さんは、続けてもう少し詳しい経緯を教えてくださった。

「以前、息栖神社が火事になり社が燃えてしまいました。氏子達が神社の再建資金を調達するために、祖父に神社の森を買ってもらうよう頼んだそうです。そこで祖父が森を買って、神社再建の資金を出したそうです。その時に森の奥にあったお稲荷さんを寂しそうだからと父が祖父に言って神社の境内に移したそうです。まだほんの20数年前の話だそうです」

 息栖神社は、門前に土産物屋が並ぶわけでもなく、参拝客を誘致するための宣伝を打っているわけでもなく、静かに、ひっそり佇んでいる。でも、地元の人たちがこの神社を愛し、敬っていることは、神社の中も周囲も、いつでもきれいに掃き清められ、門前に通りかかる人たちが必ず、本殿に向かって深々とお辞儀をしていく様子をみれば、よくわかる。そんな風に愛されてきた神社だからこそ、火事で焼けてもすぐに再建されたのだろう。太田さんのお父さんとお祖父さんが、森の中でポツンとしていたお稲荷さんを寂しそうだからと、明るい境内に移す。それも、八百万の神を愛しみ、敬う心が、そのまま表れた行為だ。

 ぼくは、神様と息栖の人たちのそんな関係こそが、レイラインというものの本質のような気がする。神様とはぼくたちを包み込み、生かしてくれている自然そのもののこと。その自然を愛しみ、敬い、自然と会話を交わし、人と自然が心地よく共生していく。それが当たり前のことであった時代は、大地の気の流れともいうべきレイラインをも何ら特別なものでなく、誰にとっても、当たり前の存在だったのではないだろうか。

 息栖神社は、鹿島神宮、香取神宮とともに「東国三社」と呼ばれる。そして、この三つの社を結ぶと大地に直角二等辺三角形が描き出される。その底辺にあたる息栖神社と香取神宮は、ほぼ完璧に同緯度に位置している。それが果たして息栖神社が火災で焼失してその後再建されたときに意図されたものなのか、それとも以前からその位置に本殿があったものなのか、そのあたりを、今度は太田さんのもとを訪ねて取材したいと思っている。

 

COLUMN TOP

HOME


 




Copyright (c) 2002 Leyline Hunting Project. All rights reserved.