2002.06.24 夏至の結界

 先週の金曜日、21日は「夏至」だった。この日、ぼくは伊勢の二見ガ浦で夫婦岩の間から昇る朝日を拝み、その足で、GPSを頼りに伊勢・元伊勢ラインを辿った。そして、元伊勢の日室岳山頂に沈む夕陽を見届けた。

 ちょうど一週間前に関東地方まで梅雨入りしてから、律儀に雨が続き、この日も御来光を拝むのは無理かと思った。前夜、ネットで刻々と変わる「ひまわり画像」を眺めながら、もしかしたら晴れるかもしれないと判断して東京を発ったのが19時半をまわっていた。中央高速から東名、東名阪、伊勢自動車道と乗り継ぎ、途中、いくどか雨に叩かれながらも、なんとか21日の2時半には、二見ガ浦に到着した。

 一日ずらせば、天気に恵まれることは出発する時点でわかっていた。そして、たしかに一日違いなら、夏至当日とさして変わらない写真を撮ることはできる。でも、どうしても夏至にはこだわりたかった。なぜなら、この日は、二見ガ浦の興玉神社では「夏至祭」と同時に大祓が行われ、元伊勢の内宮でも何か行事が行われるだろうと予想していたからだ。

 その日、その時、その場にいなければ意味がない。そういうことが、じつはたくさんあると思う。ところが、現代人は、時間を便宜的に区切ることを覚えてしまい、時計が指し示す時間にとらわれて、一年365日、一日24時間の機械的なサイクルに自分を当てはめてしまっている。時計が指し示すスケジュールには従順だが、季節の変化、地球や宇宙のリズムに、合わせて生きているだろうか?

 東京を出発するときは、なんとか雨は上がっていた。そして、いつもなら他が雨でも晴れている甲府盆地は、かなり強い雨が降っていた。八ヶ岳高原へ登って行くにつれ、雨脚が弱くなり、諏訪では高曇りの空の元で、街の明かりが輝いていた。伊那谷では、所々で弱い雨が波のように打ち寄せてきた。名古屋へ抜けると、雲の切れ間から丸い月が顔を覗かせた。伊勢へ向かう道では、再び雲が厚くなり、見えかけていた星もまったく見えなくなった。

 そして、二見ガ浦に到着すると、まだ夜明けまで2時間もあるのに、水平線の先から朝の明かりが漏れ始めていた。その微かな曙光を拝むと、ふいに、夏至の太陽は特別なものであるという直感がわきおこった。そして、間違いなく夜明けのときには顔を出してくれることもわかった。

 二見ガ浦の岸辺にある興玉神社は、猿田彦命を祭る。天孫である邇邇芸命が天照大神の命を受けて、天下りする。それを地上の近くで待ち受け、案内するのが猿田彦命。夫婦岩の間から顔を覗かせる太陽は、まさに天孫の降臨を表し、それを待ち受けるわけだ。遥拝所に立ち、夫婦岩のちょうど真中にGPSを向けると、電子コンパスは、背後の興玉神社の本殿から伊勢内宮までが直線で結ばれることを示す。天孫は、猿田彦命に導かれ、内宮にたどり着く。そこは、天照大神を祭る神社。邇邇芸命は、いわば露払いとして、背後に天照大神を背負っているという構造だ。

 神話を現実に当てはめて考えたとき、ほとんどの人は、それをただの象徴として片付けてしまう。昔の人は迷信深かったから、そんな神話を現実のものに置き換えて、なんとか形を作ろうとしたと。だが、実際に、夏至のその日、その瞬間に、その場所に立ってみると、それが、けして象徴などではなく、現実に、何かを起こす仕掛け、確かに何かを迎え入れる装置だという実感が持てる。

 午前4時40分。茅輪を潜り、興玉神社本殿で祝詞を上げた人たちは、表に出て、次々に海へと入っていく。大祓の祝詞とともに、両手を合わせ、夫婦岩の間に渡された注連縄の向こうを見つめる。雲があって、水平線から昇る太陽は見られないが、しばらくすると、雲の切れ間から一筋の光が射し、一瞬、太陽が顔を覗かせる。キリスト教では、そういう瞬間を「エピファニー=神の顕現」という。一年を通して雨がほとんどむ降らない荒野に、突如として雨雲が垂れ込め、地上の全てを押し流す豪雨が襲う。そして、穢れをすべて流し去った後に、厚い雲が途切れて、そこから太陽の光が射し込む。それは、間違いなく「奇跡」、「神の降臨」として、感じられただろう。

 一年のうちで、まさにこの瞬間だけにしか見られない光景。しかも、それは必ずしも毎年見られるとは限らない。禊をする者と岸辺に集まった人たちの心が、すべてその太陽に集中する。元々、夏至の太陽には特別の力があり、さらに、それを崇める人たちの気持ちが重なって、より大きな力を発揮する。それは、そこに居合わせた人たちのメンタリティに大きな影響を及ぼす。やはり、この瞬間にこの場に居合わせることこそが重要なのだと思わせる。

 禊を受けた人も、岸辺から日の出を拝んでいた人も、それを見届け、その光を受けた後は、まるで生まれ変わったように、晴れやかな表情をしていた。

 今回は、ハンディGPSのベストセラー機であるGARMINのe-Trexを日本語化して、日本地図を装備した最新モデルの「Vista」を使い、あらかじめデジタルマップから拾った伊勢・元伊勢ライン上のポイントを辿りながら進む。標準搭載の20万分の1の地図とは別に、2万5千分の1の詳細地図をマップソースからインストールすることができる。そのマップソースは、7月末から発売予定のため、今回は、このモデルの発売元である「いいよねっと」さんに協力してもらい、近畿と北陸をセットアップしてもらった。

 ルートとして、途中のウェイポイントを何ヶ所か設定しておき、ほぼレイラインを辿っていくことで、その周辺で関連ありそうな事物と出会えればというわけだ。ただし、今回は日の出から日没の限られた時間しかないので、気になった場所があっても、それを記憶に留めるだけで、足早に通り過ぎた。レイライン上の細かい事物を検証するのは、次の機会ということで...。

 二見ガ浦を後にして、まずは内宮へ。あえて国道を外れて、GPSに従って行くと、そこは昔の街道で、晴れた空で高度を上げていく太陽の日差しが、背中を温める。内宮へのお参りもそこそこに、再びオートバイを走らせると、道は、また古い街道となり、両側に昔から続く古い家が軒を連ねる。ところどころで、遠くまで見通せる直線路となり、それは、GPSが指し示す次のポイントへの矢印とぴったり一致する。町並みが途切れても、古い街道と思しきところに差し掛かると、直線とGPSの指し示す向きがぴったり一致する。昔の人が作り出した街道と最新の機器が同じものを指し示す。まさに、自分がレイライン上にいることを意識する。

 街道の先には、斎宮跡があった。「斎宮」とは、「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところ。天皇に代わって天照大神に仕える斎王がいた。その斎王は、代々皇族の女性が務め、生涯独身を守った。朝廷から「御杖先」として天照大神を案内したて倭姫命(やまとひめのみこと)が、その最初とされている。卑弥呼の世から、女性シャーマン「巫女」が祭りを司る役割を担うのが、日本の伝統だったのだろうか。

 今は広々とした公園になっている斎宮を後にして、レイラインに祖ってしばらく進むと、松坂市役所がある。隣接して松坂城跡もあるから、もしかしたら、今、ぼくが辿っているレイラインを基準に、政治の中枢、ランドマークが置かれたのかもしれない。

 さらに、これも古い都のあった信楽に向かってまっすぐ進む。途中、伊勢と元伊勢のそれぞれの内宮と外宮どうしを結んだラインが交差する場所がある。地図上では、とくにこれといった特徴のない山の中なのだが、できれば、その場所まで行ってみたかった。信楽から10kmほど手前の山中には、そのポイントへ向かって林道が伸びていた。だが、目標地点まで100mほどにまで近づいたが、そこで道は通行止めとなり、ポイントは道から外れた藪山の中のため、ここまでとした。

 信楽の市街はレイラインから少し外れるが、そこには「新宮神社」がある。ここは、聖武天皇が造営した紫香楽宮へと続く朱雀大路の基点となっていたところではないかと推定されている。

 ここまで、かなり足早に進んできたつもりだったが、日は意外に高く上がってしまった。時刻は正午で、ちょうど南中の時刻。ふだんは、太陽の高さと時間の関係なんて、ほとんど意識していないが、こうして、太陽と追いかけっこをしていると、太陽の運行がまさに「時間」なのだと、新しい発見でもしたような気分になる。

 先を急ぎながらも、滋賀一の宮の建部神社では、掃き清められた境内があまりにも気持ちよく、日差しの温かさにも誘われて、ベンチに腰掛けたまま居眠りをしてしまった。ふつう、そんな眠り方をしたら、眠気を増長してしまうものだが、1時間にも満たない睡眠で、十分熟睡したような満足感がある。昔、アウトドア仲間何人かとロッククライミングの真似事をしていて、大きな花崗岩の上で、全員同時に眠りに落ちてしまったことがあった。そのときも小一時間で、みながほぼ同時に目覚め、なぜかすっきりしているのを不思議がったことがあった。あのときの感覚に良く似ている。そういったものこそ、まさに聖域が持つ力だと思う。

 京都市街の北側、大門寺山から山科、下鴨神社、上賀茂神社と通り過ぎて、北山杉の美しい林の中の道に入る。市街地をかすめるときは恐ろしく暑かったのに、北山は、ひんやりとして、まるで別天地だ。そして、峠をいくつも越えていくと、何故か、だんだん懐かしい気持ちが強くなっていく。和知を過ぎ、今日の最終目的地である元伊勢のある大江に入ると、その気持ちがピークに達し、そして、何故そんな気持ちになったのかが、たちどころにわかった。この丹波地方の風景は、伊勢の風景にとてもよく似ているのだ。こんもりとした山の連なりと、その間の谷を流れる緩やかな川、全体が優しく、のんびりとしている。それでいて、どこか気持ちを引き締める雰囲気がある。山がそのまま海と出会って、複雑な湾をたくさん形成する海岸の風景も、そこに漂う風も良く似ている。伊勢の外宮は、斎王の枕もとに立った天照大神、「丹波が懐かしい、丹波の豊受大神はどうしているだろう」と懐かしがるので、豊受大神を勧請して創建されたと伝えられる。そんな伝説がごく自然に感じられる。

 そして、16時すぎ、無事に日が没する前に、元伊勢内宮に到着することができた。内宮にお参りしてから、その裏にまわり、日室岳を拝む。去年、今より少し早い時期に訪れたときは、残念ながら太陽は雲に覆い隠されていた。今年は、伊勢からずっとつきあってきた太陽が、まさに山頂に差し掛かりつつあった。

 15時15分、まさに山頂に没しようとする太陽を前に、遥拝所では、そこに居合わせた人が宮司とともに大祓の祝詞を唱え、祓いを受けた。毎年、夏至の日は、ここに訪れるというおばあさんは、「今年は、お日様を拝むことが出来て、ありがたい」と、何度も何度も叩頭していた。ここに居合わせた誰もが、この瞬間の言葉にできないありがたさを噛み締めていた。

 翌日、大江からほど近い天橋立の袂に位置する元伊勢籠神社を訪れた。ここには、物部氏の末裔が定期的に訪れるという。物部氏といえば、蘇我氏との政争に破れ、歴史の闇に沈みながらも、歴史の影にも時には「鬼」として存在し続けてきた古代豪族。大江は、平安京創建の折に、比叡山を開いた最澄によってその場所を追われ、大江に住み着いた酒呑童子の里でもある。そして、元伊勢内宮のご神体である日室岳を見下ろす大江山には、鬼を祭った「鬼稲荷」がある。...それらは、単なる偶然の連鎖なのだろうか?

 天橋立を見下ろす位置にある籠神社。ついつい、この橋立をラインに見立てて先へ伸ばしていったら、何があるのだろうと、想像してしまう(笑)。ちなみに、籠神社で大江の元伊勢の話を聞くと、「あそこは、元々は村社のようなもので、たいした由緒はない」とのこと。だが、ぼくは、後に便宜的に定められた由緒より、自分の感覚を大切にしたいと思う。

 

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