2002.07.06 熊野

 先日、熊野に住む大学時代の友人から久しぶりに電話がかかってきた。もともと小学校の教師をしているのだが、市の教育委員会の文化財研究委員にもなり、熊野の文化財を訪ね歩いたり、郷土史家と研究会を開いたりする他、全国各地の文化財研究や保護の活動をしている団体と交流を持ったりしているのだという。そんな交流活動の一環として、先日、熊野に縁の「徐福」の研究会のメンバーと、丹後半島を訪ねたとのこと。

「内田、びっくりしたよ。丹後の元伊勢に寄ったんだけど、あそこは、内宮も外宮もあれば、五十鈴川もあるし、伊勢と同じ構造なんだよ」

 彼は、ぼくがレイラインの取材をしていることも知らなければ、ちょうど同じ頃に伊勢・元伊勢ラインの取材で、丹後半島にいたことも知らない。そこで、ぼくが今、伊勢と元伊勢をテーマに調べものをしていて、夏至の日にちょうど元伊勢にいたことを話すと、彼は、しばらく絶句するほど驚いてしまった。

 彼は、高校時代は伊勢にほど近い松阪で下宿生活を送り、伊勢神宮には、よく足を運んでいたという。「内田、伊勢には、ほんとうに神様が住んでいるとおもうぞ」なんて、真剣な顔で20歳そこそこの男が話すのを、当時のぼくは、ずいぶん年寄り臭いことを言う奴だななんて、思っていたが、元はといえば、そんな言葉がずっと脳裏にこびりついていて、20年も経ってから、レイラインハンティングという道に踏み込むひとつのきっかけになったともいえる。そんなわけで、伊勢に行ったときに、彼の顔が思い浮かび、時間があれば、熊野にも足を伸ばしたのだがと思った。

 伊勢と元伊勢を巡るそんなシンクロニシティも不思議だが、ちょうど、ぼくが熊野と「徐福」伝説について思いを巡らせているところに彼の電話がかかってきたことだ。

 熊野は、中世に天皇が繰り返し行幸し、それにあやかって庶民も参詣に訪れて、その行列が途切れないことから「蟻の熊野詣」と形容されたりもした聖地。新宮の速玉大社、本宮の本宮大社、そして那智の滝をご神体として扇ぐ那智大社を合わせて、「熊野三山」と呼ばれている。この三山を結ぶと、速玉−那智を底辺としてきれいな二等辺三角形が描かれる。底辺とそれを挟む辺の比率は、1対2対2。さらに、今度は那智大社と、その近くの補陀洛山寺、速玉大社を結ぶと、同じ比率の相似形ができる。

 熊野は、かつて補陀洛浄土への入り口と信じられ、多くの僧が熊野の海岸から旅立った。補陀洛山寺は、その出発点ともいえるところで、ここの住職は、還暦を迎えると補陀洛渡海の旅に出たという。

 面白いのは、その熊野に秦の始皇帝が不老不死の霊薬を探すように命じた徐福が上陸したという伝説があること。徐福は、速玉大社がある近くの浜に上陸し、日本中を巡った後に、再びこの地にやってきて亡くなったと伝えられている。速玉大社の近くには、「徐福の墓」があり、ここにも未だに多くの参拝者が訪れている。

 補陀洛浄土への出発地とされ、ここから多くの僧が渡海した場所であり、不老不死の霊薬を求めた徐福が訪れたとされる。吉野を発った修験者は、大峰を越えて熊野までやってきて、還俗していく。の世とあの世の境にあって、死者と生者が交錯する場所。熊野は、いずれ、じっくり腰を据えて調べてみたいと思っているところだが、思わぬパートナーが現われたというわけだ。

 


A=熊野本宮大社、B=熊野速玉大社、C=熊野那智大社、D=補陀洛山寺。
本宮大社は、明治22年(1889年)8月にこの地方を襲った水害で流され、現在の場所に移された。水害前には、現在の場所から500mほど南東の熊野川・音無川・岩田川の3つの川が合流する「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にあった。この図でプロットしてあるのは大斎原。
那智大社は、ここでは本殿をプロットしてあるが、ご神体である那智の滝をプロットしたほうがいいかもしれない。

 

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