2002.08.01 大祓詞

 神道は体系化された経典を持たず、組織も整備されず、崇める「神」も無数にあって、一般的な「宗教」の枠組みからは大きく外れているといわれる。だが、その体系化されていないおびただしいイメージは、全体を見渡すと、プリミティヴな自然信仰の形がはっきりしてくる。

 善も悪もなく、ただ自然そのままにあること。自然の大きさ、深さをそのまま受け入れて、人間は、敬虔な気持ちで接すればいい。そんなことが明快に示されている。

 たとえば、生きていくことでどうしようもなく溜まってしまう罪や穢れ。それを祓う「大祓詞(おおはらいののりと)」という祝詞がある。そこでは、人にまとわり着いた罪や穢れを雄大なスケールの自然の中に捨てることで希釈され、消えていく様子が示されている。

「……罪という罪は在らじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く。朝の御霧、夕の御霧を、朝風夕風の吹き払う事の如く。大津辺に居る大船を舳解き放ち、艫解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く。繁木が元を、焼鎌の敏鎌もちて打ち払う事の如く、残る罪はあらじと。高山の末、短山の末より、佐久那太理に落多岐つ、速川の瀬に座す瀬津比賣という神、大海原に持ち出でなむ。此く持出往なば、荒潮の潮の八百道の八潮道の八百會に坐す速開都比賣という神、持加加呑みてむ。此く加加呑みては、氣吹戸に坐す氣吹戸主という神、根国底国に氣吹放ちてむ。此く氣吹放ちては、根国底国に坐す速佐須良比賣という神、持佐須良ひ失ひてむ。此く佐須良ひ失ひては、今日より始めて、罪という罪は在らじと……」

 人から罪をすっぱりと断ち切って、それを川に流す。その罪は、川を流れて海に注ぎ、海の彼方に運ばれる。そこで深海深く飲み込まれ、広く深い海の底で撒き散らされて、消滅してしまう。とても具体的なイメージで綴られる。

 記紀神話もそうだが、神道のテクストの中に散りばめられたイメージや概念は、素直な気持ちでそれを読むとき、忘れていた何かを教えてくれる気がする。

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