2002.09.10 宝探し

 先日、長野県の八坂村に住む古い友人を訪ねた。長野から新潟、富山、岐阜と巡り歩く取材の最後に、以前、このコラムでも紹介した「風切り地蔵」を訪ねがてら、無沙汰している友人の家を訪ねたというわけだ。

 彼は、もう20年間も、悠悠自適な「旅人暮らし」を続けている。大町市の東側にある山間の村に、一応住居はあるが、そこにいて少し稼ぐと、犬を連れて旅に出かける。だいたい、一月稼いで二月は旅の空といったペースで、年間を通してみると旅に出ていることのほうが多い。事前に連絡してあったわけでもなく、ダメ元で、当日電話をしてみると、彼が出た。タイミング良く前日に2ヶ月あまりの北海道の旅から戻ったばかりだという。

 その夜は、高山で仕入れた地焼酎を飲みながら、積もる話に花を咲かせた。

 翌日、とりたてて用事のない彼を誘い、風切り地蔵の探索に向かった。姫川が谷底を流れるフォッサマグナを横切るように、一直線に据えられた三体の風切り地蔵は、糸魚川のほうから白馬へ向かって作物を枯らす冷たい風や疫病が入るのを防ぐ結界の役目を果たしているという。

 その一つは白馬岳の前衛を成す小蓮華岳の山頂に安置されている。もう一つは、その麓の栂池にある。そして、三つ目は、鬼無里村の峠の近くにあるということで、これだけが正確な場所がわからなかった。

 小蓮華岳に登る時間はなかったので、とりあえず、場所のはっきりしている栂池の地蔵を訪ねた。それは、整備された県道の脇にあって、すぐにわかった。台座も含めて2.5mはある立派な地蔵で、周囲は良く手入れされ、由来を記した看板も掲げられている。この地蔵は、小蓮華岳に背を向け、もう一体が安置されているであろう鬼無里の山を仰いでいる。

 旅慣れてはいるけれど、こうした探索の旅が初めての友人は、「このあたりは通ることがあるけど、風切り地蔵なんて、気にも止めたことがなかったよ」と言って、その後は興味深そうに由来を読んでいた。

 次に向かった鬼無里では、地図とGPSの電子コンパスを使って、目ぼしい場所を探すのだが、なかなか特定できない。そのうち、「内田君、こりゃ、地元の人に聞いたほうが早いよ」と言って、地元の人に聞き込みを始めた。だが、誰に聞いても、風切り地蔵のことは知らない。「もしかしたら、うちらのじいさんやばあさんに聞けばわかるかもしれんけど...」と、60代、70代とおぼしき年齢の人たちが答える。

「これは、一筋縄ではいきそうもないぞ、内田君」。もう、すっかり彼のほうが主役のレイラインハンターだ。

 そんな中、休憩に立ち寄ったおやき屋の主人に同じ質問をしてみると、「私は、そんな話は聞いたことないけれど、この先の山村文化資料館で聞けば、何かわかるかもしれないよ」と、教えてくれた。

 そこへ行って、風切り地蔵のことを尋ねると、研究員の方が重い資料を抱えて戸口まで出てきて、丁寧に教えてくれた。それは、たしかに鬼無里にもあるとのこと。かつての善光寺参りの街道の途中、柄山峠の近くに安置されているとのこと。「でも、今は廃れた街道で、麓の集落からは歩いてだいぶかかるから、これからだと日が暮れてしまうでしょうね」。

 結局、今回は三番目の風切り地蔵を訪ねるのは断念したが、位置がはっきり特定できたのは、大きな収穫だった。一日探索に付き合ってくれた彼は、「峠には、いつ登る?」と、興奮気味だ。

 その夜、彼の近所に住む彼の従兄弟のところで、もう一人の友人も交えて、酒を酌み交わした。その場で、彼は、風切り地蔵探索の話をした。他の二人は、彼と同じように他からこの八坂村に移ってきた人たちだが、地元の歴史にはけっこう興味を持っていて、いろいろ調べてもいる。だが、風切り地蔵のことは二人とも知らなかった。

 それを発端にレイラインの話になったのだが、建築士の彼の従兄弟は、「内田さんて、ロマンチストなんだねぇ」と、呂律怪しく一人納得し、もっと出来上がっていた造園家は、「地図上できれいに並んでいますなんて言ったって、よく測量したら、そんなもんぜんぜん正確じゃないんだよ。そんなふうに見える、ただの偶然、偶然だよ」と履き捨てるように言った。そして、ずっとノンアルコールビールを傾けながら黙っていた旅人の彼は、一人しらふで、「違うよ、内田君は、そうやって、地図で調べて、今度は現場へ行って地道に調べて、何をしているかというと、誰かが隠した宝を探しているんだよ」と、真顔で言い放った。

栂池にある風切り地蔵。遠く見つめる山入端の向こうには、もう一体の風切り地蔵が....それとも「宝」が隠されている?

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