小田急線直線路の不思議 vol.2 「2002年冬至」

 東京の新宿と神奈川の小田原、江ノ島を結ぶ小田急線は、沿線に住んでいる人も多く、利用者も多いため、第一部では、意外に大きな反響があった。

 そんな中で、Iさんから重要な情報が寄せられた。それは、小田急線の創設者である利光鶴松という人物が、鍵を握っているのではないかということ。

 大分で生まれた利光は、明治の半ばに上京して事業家となり、初めは日光周辺で鉱山開発を行う。だが、この事業はうまくいかず、次に、鉄道事業に進出する。その最初の計画は、地下鉄で、皇居の下を通り渋谷から、現在の小田急線に連なるという大胆なものだった。この地下鉄ルートが完成していれば、まさに「鹿島-富士」ラインを皇居から明治神宮という重要なスポットを貫いて通すことになった。

 だが、地下鉄の計画は認可が下りず、代わりに、現在の小田急線が認可され、工事が着手される。

 鉄道事業に転進してからの利光は、「鹿島−富士山」ラインにこだわっていたように見える。それは、やはりこのラインに何か大きい力が秘められていて、それを利用したかったからなのかもしれない。

 利光が生まれ育った大分では、当時、鉱山開発やサルベージなどの事業携わる「山師」が多かったという。彼らは、その仕事の性質上、陰陽道や風水、さらには西洋のダウジングなどに通じていたという。利光の経歴をみると、彼がそんなオルタナティヴな知識や技術を身につけていたとみて間違いないだろう。

 面白いことに、その利光の長女静江の懇願によって、ルルドの聖母を祭る教会を建てる。その場所は北多摩郡狛江町岩戸1196(現在の狛江市岩戸1196〉で、ちょうど直線路が終わって狛江駅のほうに線路がカーブするあたりで直線と交差する位置になる。現在は、喜多見カトリック教会として喜多見駅前にあるが、その庭には、今でもルルドの聖母が佇んでいる。

 小田急直線路の謎は、まず、小田急創業の由来からして、なにやらマジカルな様相を呈してきた。

 今回は、そんな新たに得た知識を踏まえながら、前回予告したように、12月22日の冬至の当日に、小田急線直線路を辿ることにした。

 当日、11時、千歳船橋駅からスタート。BBSの呼びかけに応じてKさんが待っていてくれたのに気づかず、ぼくは、あらかじめ目星をつけていた「天祖神社」へ向かってしまう。

 新宿方向へ少し戻った線路の北側に「天祖神社(伊勢宮)」はある。祭神は天照大神。格付けは村社だが、歴史を感じさせる佇まいに、まだ新しい能舞台などがあって、地域で大切にされてきた鎮守様といった雰囲気だ。

 天祖神社から戻って、今度は西へ歩き出したところで、Kさんに呼び止められ、ようやく合流。初めてお会いするのに、なんだか、昔からの知り合いのような気がして、話が盛り上がる。一人でじっくりと聖地巡りをするのもいいが、こうして、仲間と一緒に、賑やかに、互いの推理を披露し合いながら巡るのも面白い。

 今、小田急線直線路は、交通渋滞緩和のための高架線化が進められている。その高架に沿って西へ辿っていく。千歳船橋の次の祖師谷大蔵では、これも線路のすぐ北にある「神明宮」を訪ねてみたが、これがどうしても見つからない。神明宮も天祖神社と同じく天照大神が祭神だが、太陽を象徴するこの神を祭る神社が冬至の入日のラインに並んでいるのは興味深い。その意味でも、神明宮には、ぜひ訪ねたかったのだが、ここで、あまり時間をとられては、今日のメインである星祭りに間に合わなくなってしまうので、また日を改めて訪ねることにしてた。代わりに、祖師ヶ谷大蔵商店街の中に埋もれた小さな祠にお参りして、西へ向かう。 

 祖師谷大蔵を過ぎると成城。ここは、東京でも有数の高級住宅街だが、小田急直線路に沿った経堂から千歳烏山、祖師谷大蔵、成城のあたりは、一帯が落ち着いた住宅街になっている。

 成城は、多摩川を見下ろす河岸段丘の上に位置していて、ここを過ぎると、線路は下降していく。ちょうど、その下降が始まる付近の丘の中腹に「喜多見不動」がある。

 この喜多見不動では、毎年、冬至の日に「星祭り」が行われる。夜の世界から昼の世界に転じるこの日、護摩を焚いて、一年の厄を払うとともに、次の年の幸運を祈る。これは、密教に由来するもので、高野山では「星供(ほしく)」として知られている。

 この日、小さな社には、地元の人がたくさん詰め掛け、一心に経を唱えている。境内では、唐なす汁粉が振舞われ、自由に持ち帰っていい袋入りのゆずが置かれている。こちらも、天祖神社のように、小さな寺だが、地元の人たちに親しまれ、大切にされている雰囲気がある。

 後に友人の宗教学者に聞いた話だが、星祭りをこのように昔ながらの地域の人たちだけでこじんまりと行うところは、全国的に見ても少なくなってしまっているそうだ。

 喜多見不動は成城の段丘の中腹に位置していて、剥き出しの崖に空けられた小さな洞窟に不動明王が安置されている。また本堂の横には、小さな稲荷社もあり、麓には、滝修行場としても使われる湧き水が迸る小さな滝がある。元々はここにあった自然の造物崇めていたものが、修験の要素を帯び、さらに神仏習合によって、今の混交した形になったものだろう。

 喜多見不動は高台に位置して、西を向いているものの、目の前は、木立に阻まれて、展望は効かない。だが、方角から見て、かつては、冬至のこの日に富士山頂に沈む夕陽を拝んだものだろう。正式には、麓の滝で身を清め、本堂で護摩供養をした後に、夕陽に向かって、生命の再生を願ったのだろう。14時から始まった供養は、ちょうど日没のタイミングを見計らうように16時に終わり、本堂で読経していた僧侶と地元の人たちが退出してきた。

「星祭り」で振舞われた「唐なす汁粉」と「ゆず」。地元の人間でなくても、暖かくもてなしてくれた。汁粉の上品な甘さと、後で入ったゆず湯の温もりが、冬至の一日の思い出をしっかり印象づけてくれた。

 

別名「滝不動」とも呼ばれる喜多見不動の象徴ともいえる麓の滝。多摩川の段丘下になるこのあたりは、伏流してきた水が豊富に湧出している。

 残念ながら曇天で富士山に沈む夕陽を見届けることはできなかったが、一年の締めくくりとしての、そして再生への祈りの日としての「冬至」を実感できる一日だった。

 喜多見不動を後にしてから、最後に、利光鶴松が長女の懇請によって建てた喜多見カソリック教会に立ち寄る。カムナさんと二人、敷地の中でルルドの聖母に向かって話しをしていると、中から若いシスターが出てきた。彼女に話を聞くと、たしかに、この教会の由来は、利光の長女の願いによるものとのことだった。だが、何故、ルルドの聖母なのかといったことは、彼女は知らなかった。

 また、ここでは、冬至の祭りはとくに行っていないという。考えてみれば、キリスト生誕の日、クリスマスは、冬至に非常に近い。太陽の再生がキリストの生誕に象徴されていると考えるのは、自然なことだろう。そういえば、今の天皇の誕生日も冬至もしくはそれに非常に近い日だ。これもとても象徴的だ。

 

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