縄文をつなぐものたち 

 大石神ピラミッドを後にして、再び十和田湖に向かう。途中、来るときに通り過ぎた迷ヶ平(まよがたい)に立ち寄った。ここは、戸来と十和田湖を結ぶ峠であり、広い台地になっている。キリストの墓を「発見」した山根キクらは、「竹内文書」に記されたエデンの園に符合する場所としている。エデンの園であるかどうかはともかく、ここには、目を引くピラミッド型の山「十和利山」がある。

 台地の北には、鳥居があり、それは、標高991mの十和利山を正確に北に拝んでいる。鳥居を潜っても、その先はキャンプ場になっているだけで、社のようなものはない。十和利山そのものをご神体として拝するシンプルな形で、この山に対する信仰がかなり古いことをうかがわせる。

 戸来村で大石神の巨石群をピラミッドと断定した酒井勝軍は、この十和利山もピラミッドの一つに数えている。形は確かにピラミッド型で、高原の北側ではこの山だけが目立つ独立峰だが、黒又山や大石神ピラミッドのように、磐座と推定されるような巨岩や人工的な石組みなどは見つかっていない。

 ところが、不思議なことに、岩にまつわる遺物は、高原の反対側、南に位置するドコノ森のほうで見つかっている。やはり、昭和11年、キリスト伝説や古代ピラミッドで俄かに沸き立った戸来と十和田エリアの片隅で、今度は金鉱が発見されたという噂が広まった。その場所というのが、ドコノ森で、実際に地質調査が行われ、金鉱の変わりに、この山の南斜面の七合目から頂上に渡る一帯に散らばる奇妙な岩を発見することになる。その岩には神代文字ではないかと推測される線刻が刻まれていた。神代文字で記された秘伝の文書を翻訳したといわれる「竹内文書」は、ここでもう一つの神代文字に繋がったわけだ。現在、そのドコノ森の山麓では、風力発電所の工事が進められている。すでに迷ヶ平の南部に据え付けられた三機の風車は稼働していて、北の十和利山を向いて、そこから吹き降ろしてくる風を受けて、ゆっくり回っている。その光景は、太古、この地に自然と共生した文明が存在したことを暗示しているような気がした。

 さらに、ドコノ森に黄金は見つからなかったものの、この地方には、はるか昔から黄金伝説が語り継がれている。十和利山から見て、ちょうど南、現在の田子町の外れに黒森山がある。ここには、南北朝末期の長慶天皇の墓があり、それが黄金で作られているという。長慶天皇は、南朝方の天皇で、その最後は北朝勢に囲まれ、自害したと伝えられている。ところが、この長慶天皇が生き延びてこの北東北の地に辿り着き、ここで生涯を追えたというのだ。

 あるとき、キノコ採りに黒森山に入った村人が、森の奥から眩しい光が漏れてくるのに気づいた。その光に導かれるように、どんどん踏み込んでいくと、あたりは急に開け、そこに黄金色に輝く塚があった。その塚に触れると、それはまぎれもなく黄金でできていた。村人は、その一部を割り取り、村まで運ぼうとするが、途中で力尽き、黄金はその場に置いて、空荷で下る。翌日、家族を連れてきて運ぼうと考えたのだ。ところが、その夜、黄金の塚を見つけたキノコ捕りの村人は、黄金の輝きに目をやられてしまったのか、盲目になってしまう。以来、黒森山で黄金の陵墓を見つけたものは何人かいるが、いずれも盲目となってしまい、その場所は特定できないという。

 この地方に伝わる昔話で、何かを山で発見したものといえば、「だんぶり長者」がすぐに思い浮かぶ。大湯の南、大日霊貴神社にもまつられただんぶり長者は、首尾よくこんこんと湧き出す美酒の泉を我が物として大金持ちになる。黄金もだんぶり長者が見つけたという美酒の泉も、この地方に眠る豊富な地下資源を暗示しているようで非常に興味深い。そもそもレイラインは、大地に秘められた現代人にとっては未知の力を古代の人間が理解して活用していた痕跡だ。それが、地球活動の産物である地下資源と密接に結びついているのは言うまでもない。逆にいえば、大地の活性が高い土地には、レイラインが存在する可能性が高いというわけだ。

 今回は、大湯ストーンサークル−黒又山−大石神ピラミッドラインを中心に、盛岡から青森までの広範な地域を駆け足で巡ったが、それぞれのポイントで数日かけて、じっくり調べてみたいとつくづく思った。なにより、縄文の雰囲気がいまだに色濃く残り、太古の人たちの息吹をダイレクトに感じられるのが北東北のいちばん大きな魅力だ。

 そして、この旅の最後に、それまでの縄文時代のイメージを根底から覆した三内丸山遺跡に向かった。

 黒又山と三内丸山を結ぶライン上には、大湯と同様のストーンサークルがあることで知られる小牧野遺跡や奇岩の磐座がある入内石神神社がある。さらに、その周辺にも、興味深い遺跡や神社仏閣がある。残念ながら、今回はそこまで訪ねる余裕はなかったが、機会を見て、何度も足を運んでみたいと考えている。

 江戸時代後期に東北各地を旅した菅江真澄は、現在の三内丸山付近にも訪れ、そこで太古の人たちの生活の痕跡が残されていることを報告している。彼は、今回の旅の半ばにぼくが訪れた大日霊貴神社も訪れている。菅江真澄という人に以前から興味があったが、今回、図らずも、この先人の足跡を辿るような形になり、ますます、興味が深まった。三河の人である彼は、いったい、東北のどこに魅力を感じて、当時としては僻遠の地に足しげく通うことになったのか...。

 三内丸山で暮らしていた古代人の精神生活の象徴ともいえる板状土偶が、大日霊貴神社に伝わる形代とだぶって見えたとき、ふいに、菅江真澄も縄文の精神に触れたくて旅をしていたのではないかと感じた。

(完)

 

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