能登・イルカ伝説と陰陽道 vol4―石動山―
 
  石動山

 富士山、立山と並んで日本三霊山に数えられる白山。この山を開いたのは奈良時代の名僧泰澄。山岳信仰の祖とされる泰澄は、能登にも足跡を残している。泰澄が能登で開山し、修験の場としたのが「石動山(せきどうさん)」。前ページの地図で見ると、ちょうど七尾の気多本宮の南に位置しているのがわかる。

 石動山縁起によれば、「往古天空より星落下し大地を揺り動かす。その石、異変あれば動ず。その故に「動字石(どうじせき)」と称し崇める」とある。隕石を御神体とする聖地は多く、そのほとんどは太古からの信仰の場所となっている。泰澄が開山したというよりは、もともと「聖なる場所」として信仰の対象であった石動山を泰澄が聖地としての体裁を整えたというほうが正確だろう。

 泰澄が整備して後、奈良時代に「伊須流伎比古(いするぎひこ)」を祭神とする伊須流伎比古神社が創建される。伊須流伎比古は、広島県の中部にある船倉山にまつわる神話に登場している。

 船倉山の女神である姉倉姫と伊須流伎比古は夫婦で、伊須流伎比古は越中と能登の国の境の補益山に住んでいた。ある日、能登の国を支配していた能登姫が越中国を自分の領土にしようと画策する。そして、まず伊須流伎比古に通じて、これを味方につけて、足場を固める。

 自分の夫を取られ、領土まで脅かされた姉倉姫は、逆に軍勢を集めて、能登攻略に乗り出す。そして、越中の氷見の宇波山で激しい戦いが巻き起こる。

 この戦いに介入したのが大国主神で、大国主神の軍勢はまず姉倉姫の軍勢を滅ぼし、姉倉姫は呉羽山の小竹野へ流される。さらに大国主神は、能登姫と伊須流伎比古の軍勢を撃破して、二人を殺す。これによって、越中から能登にかけてが大国主神の支配する場所になったというものだ。この神話は、平国祭のいわれとも一致している。

 伊須流伎比古は、たぶん能登の土着の神だったのだろう。その本拠地が、太古から信仰の場所であった石動山だった。プリミティヴな信仰の場所であった聖地を新たな勢力が攻略する。だが、聖地はそのまま聖地として引き継がれる。それは、レイライン上のポイントに共通する特徴だ。

 伊須流伎比古神社の鳥居を潜ると、奇妙なほどにひっそりとしている。

 平安時代には虚空蔵菩薩を本尊とする天台・真言寺院の天平寺を中心に、360の宿坊を数え、3000の僧と、「いするぎ法師」と呼ばれる山伏が修行した一大聖地に発展した。ところが、南北朝から戦国時代にかけて、北朝や豊臣方の攻撃を受けて衰退し、特に、1577年前田利家との戦いに敗れた後は、本尊の虚空蔵菩薩を奪われ、ついに山全体が廃墟となってしまう。

 かつて隆盛を極めた場所が廃墟となった、何か肝心なものがすっぽりと抜け落ちてしまった寂しさが、山全体を取り巻いている。

 だが、逆に、本来禁足の地であり、人はそこに踏み込むのではなく、ある程度の距離を置いて仰ぎ拝む場所としての聖地、本来の意味での聖地の静寂を取り戻して、逆に落ち着いているようにも感じられる。

 中腹にある伊須流伎比古神社神社から小石を携えて、頂上の奥宮まで急坂を30分あまり。ここに、携えてきた小石に姓名を書き、願いをこめて奉納する。石が天から降り、石が動く、石が生きているこの場所で自分の思いを石に仮託して天に伝える。世界中で隕石や巨石が信仰されるのは、それが宇宙と人の思いとを繋ぐデバイスであることを古代の人たちが意識していたことを意味するのではないだろうか。

 現代は、シリコンチップという「石」にあらゆるデータを詰め込み、石から抽出された材料で作られたラインやデバイスを通じて、そのデータを転送する文明で成り立っている。ぼくがこうしてWEBでレイラインのことを発信できるのも、「石」が秘めたポテンシャルを現代人がうまく利用しているおかげだ。

 だけど、太古の人たちは、今の我々のように様々な加工を加えなくても、石の能力をうまく使う術を知っていたのだとしたら.........それは、現代よりも高度なコミュニケーションを持った社会ではなかっただろうか。

 

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