能登・イルカ伝説と陰陽道 vol5―寄りイルカの記憶―
 
  イルカライン

 ぼくは、昔から能登に魅かれていた。もう20年以上前、初めて訪ねたとき、内陸の柳田村にある中谷家の輪島塗の蔵に宇宙を感じ、輪島の御陣上太鼓の力強い響きからは、能登の大地から沸き立つ力をそのままもらった気がした。どこにでもあるような静かな山村の佇まいの中に、太古から続く揺るぎないものの存在を感じていた。

 その能登という土地のベースにある揺るぎないものとは何か、それがずっと見えそうで見えなくて、結果、何度も訪ねることになった。

 昨年、このレイラインハンティングサイトをスタートさせ、同じように土地の持つ何かを感じ、それを調べ、考える人たちの輪が全国に広がり、情報交換するようになった。その中で、金沢にお住まいのKさんが、能登について様々な情報をくださり、ぼくの中でずっと朧気でしかなかった能登の地霊の姿が、次第にはっきりしてきた。

 イルカに関わる聖地が能登に点在していて、それを結ぶとはっきりしたレイラインになることを教えてくださったのもKさんだった。その話を元に、ぼくは、あらためて能登を辿り直し、取材して、今回のレポートが完成した。そのきっかけとなったKさんの情報が、下記のレイラインだ。

 能登の突端、珠洲の鉢ヶ崎から気多大社までを結ぶこのライン上で海に面した場所では、この章の冒頭で紹介したような「寄りイルカ」が沿岸にやってきて、それを漁師が獲って食料にした記録が残っている。

 

  初穂の記憶

 鉢ヶ崎の南にある高倉彦神社は、まさにそのイルカを祭る神社であり、同じ神社が、真脇遺跡の近くにもある。真脇遺跡は、縄文時代全期を通して栄えた、非常に息の長い、そして大規模な集落の跡で、祭祀場と推定される場所から多くのイルカの骨が出土している。

 さらに、その南の八ヶ崎や七尾湾でも、かつては寄りイルカが岸にやってきて、これを食料にしていたという記録がある。

 昔から変わらない板塀を廻らした家が並ぶ集落。狭い路地をあらかじめ位置をプロットしてあるGPSに誘導されて進んでいく。明らかに余所者のライダーがスイスイと路地を通り抜けていくので、すれ違う地元の人は訝しそうにこちらを振り返る。そのまま目的地まで行ってしまってもいいのだが、あえてGSを止めて、道端でじっとこちら見ていた老婆に話しかける。

「すいません、高倉彦神社はこっちでいいんですか?」

「高倉彦神社? ああ、すぐそこだけど、ちっちゃな村のお宮様だよ。……ところで、どこから来なさったん?」

「東京です」

「はぁ、わざわざ東京から……こんな小さな集落のお宮様に、お参りにかい?」

 そこで、聖地を結ぶラインや聖地の構造を調べているのだと説明する。

 すると、ますます訝しい目で見られるかと思いきや、老婆は急に穏やかな顔つきになる。

「昔の人たちは、賢かったからのお。どこのお宮様も、どうしてそこに置かれたのかとか、向きだとか、祭りの作法だとか、全部意味があると言いますわなぁ。この高倉彦の神さんも、なんでもイルカの神さんだというけど、わしらは、すっかり忘れてしまいました……そんなことを調べていなさるのかい、それはそれはご苦労様です」

 深々と、お辞儀までされて、恐縮してしまう。

  北側に白く長い砂浜、南側に小さな漁港を持つ入り江を分ける岬。この岬全体が神社の神域で、本殿とは別に、二つの社がエメラルドグリーンの日本海を見つめるように並んで建っている。

 その社を背に砂浜に腰を下ろす。

 一組のカモメの番と並んで、打ち寄せる波音を聞きながら沖を眺めていると、今しもイルカの大群が押し寄せてきそうな気がしてくる。

 この奥能登東海岸では、縄文時代から明治まで、イルカ漁が盛んに行われていた。そして、この高倉彦神社は、イルカをもたらす神として古代から崇敬を集めていた。

 江戸時代末期に北村穀実が描いた能登国漁業図絵には、ここでのイルカ漁の様子が克明に描かれている。そこには、褌ひとつで海に飛び込み、イルカに抱きついたまま、岸へ向かう漁師の姿がある。「この魚、人に馴染み易い魚ゆえ、漁師どもはイルカの中へ飛びこみ、人肌につけ、抱き上げるなり」。注釈は、ワトソンガ目撃した現代の南太平洋の島の出来事そのものであり、敦賀の気比神宮の逸話ともぴったり一致する。

 毎年、その年に初めて揚がったイルカは、「初穂」と呼ばれ、この高倉彦神社に供えられた。

 天保の時代、その初穂を巡って、一つの事件が持ち上がる。

 当時は神仏習合が盛んに行われる時代で、神社と寺が利害を巡って対立することが多かった。ここも例外ではなく、神主高原氏と真言宗上日寺の僧と高倉彦神社の支配のことで論が起こる。村人は残らず上日寺の檀家であったため、寺僧に押し切られる形で、神主は名前だけの存在となり、供物等のことは上日寺が仕切ることになった。

 殺生を嫌う仏門の習いから、それまでずっと続けられてきた「初穂」が止められる。すると、とたんに浦へイルカが来なくなってしまった。氏子の漁師たちは、これは高倉彦の神にイルカを献上することを止めてしまったためだとして、神主方に付き、「初穂」を復活させる。すると、再び、たくさんのイルカが、浦にやってくるようになったという。

 だが、「初穂」は、文明化の波に飲まれ、明治から大正に移る頃には途絶される。以後、この沿岸にイルカがやってくることはなくなった。今は、ただ、土地の古老の記憶の底に微かに残るだけだ。

 

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