能登・イルカ伝説と陰陽道 vol3―大国主神の足跡―
 
  大国主神の足跡とイルカライン

 気多大社の気多(ケタ)という言葉は、古代語で「鰐=サメ」を意味していたという説がある。鰐といえば、出雲神話に登場する「因幡の白兎」を思い出す。出雲を発った大国主神が日本海を北上して、気多大社の付近に上陸したという由来が、その名からもリアリティを持つ。

 大国主神の北上ルートの途中に当たる敦賀の気比神宮には、この章の冒頭で紹介したライアル・ワトソンのエピソードと同じような話が伝わっている。気比神宮の祭神、気比大神は、イルカをもたらす神で、松林が美しい気比の海岸には毎年、寄りイルカがやってきて、沿岸の住民は、これを捕獲して食料にしたという。

 一説には、敦賀(つるが)という地名は、気比神社の先に広がる湾にイルカが押し寄せ、それを撲殺して海が真っ赤に染まったことから「血浦」と呼ばれ、それが訛って敦賀になったといわれる。

 出雲大社と気多大社にはイルカにまつわる話は伝わっていないが、鰐という共通項があり、途中の気比神宮には、イルカにまつわる話がある。海獣と人間の関係が深いという意味では、何か繋がりを感じさせる。

 ところで、気多大社付近に上陸した大国主神は、ここから半島を北上するのではなく、産土神である少彦名神と一体になり、北東方向へ半島を横断する。

 その大国主神の足跡を今に残すのが「平国祭」だ。

 「平国祭」は春の彼岸に行われ、地元では「おいで祭り」と呼ばれて親しまれている。気多大社から祭神の大国主神を乗せた神輿が出発する。、途中、鹿西町の宿那彦神像石神社に泊まり、ここに祭られている少彦名神を載せて、七尾の気多本宮へと向かう。

 さらに、神輿は二神を載せたまま、気多大社に帰還する。50人あまりの行列が、六日間かけて御幸しながら、各地の産土神に祭りを奉納していく。こうした大規模な御幸祭は全国的にも極めて珍しいものだが、奇妙なことに、ほとんど同緯度に位置する太平洋側で行われる「金砂磯出大田楽」と、その様式が極似している。しかも様式だけでなく、金砂大田楽の伝わる東西金砂神社の祭神も、気多と同じ大国主神(大己貴神)なのだ。

 能登と常陸の国の大国主神の足跡、そしてそれを結ぶ北緯36゜30'33"ラインの大国主神ポイントは、とても興味深いテーマだが、そこには、ここでは踏み込まない。それは、別の機会に探求するとして、ここでは、平国祭のルートのその先に焦点を当ててみたい。

平国祭のルートと、御幸が立ち寄る神社。このラインは、下記のイルカラインにほぼ沿っていて、さらに、邑知潟断層帯に沿っている。断層とレイラインの関係は興味深い。

 

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