2002.09.17 虚ろ舟

 享和3年(1803)、2月22日。常盤国はらやどりという浜の沖合いに見慣れぬ舟のようなものが浮かんでいるのを漁民がみつけ、これを浜に引き揚げた。それは直径三間(約5.4m)あまりの円盤状で、上部はガラスがはめ込まれて、隙間は松脂で固められ、下部には鉄板が貼り付けられていた。

 この中には、見慣れない風体の女が一人乗っていた。眉と髪の毛は赤く、顔は桃色、聞きなれない言葉をしゃべった。その手には二尺四方の箱を持ち、これを片時も離さない。舟の中を調べると、水が二升、敷物が二枚、それから食料らしきものが少しあった。

 村人たちが、これをどう処置したらいいのか話し合っている間、女はにこにこしながら見守っていた。

 じつは、このあたりには、それ以前にも同じような舟が漂着したという言い伝えがあり、同じように、見慣れぬ女が一人乗っていたという。そのときは、これは遠く異国の地で不義密通を犯した王女で、このような舟に入れられ、流されたものだと解釈されて、再び、海に流された。その先例に倣い、このときも、また沖へと流されてしまった。

 それは、滝沢馬琴が主宰して当時の文人たちが奇談を持ち寄って報告した「兎園会」の中で披露された話で、後に「兎園小説」としてまとめられたときに、流れ着いたとされる舟とそれに乗っていた女の姿、そして舟の中にあった文字などの挿絵付きで紹介された。

 ここに出てくる「はらやどり」という浜は諸説あるが、太平洋に面した鹿島灘の大洗から鹿島の海岸のどこかであることは確かで、この話に因んだモニュメントが、そのちょうど中間点の大竹海岸に建てられている。

 じつは、この大竹海岸は、ぼくの実家から程近い場所で、幼い頃から海水浴や遠足に出かけたところ。このあたりは、親潮と黒潮がぶつかるところで、沖でぶつかった潮が渦を巻いて岸近くまで達するので、それに運ばれて海岸に漂着するものが多い。幼い頃は、外国語の書かれた船具や船の備品や椰子の実、不思議な形に侵食された流木など、飽きもせず、拾い集めたものだった。今でも、嵐の後など、おびただしい漂着物に海岸が埋め尽くされることがある。あるときは、アザラシの死体のようなものを見つけ、良く見ると土座衛門だったといったこともあった。

 そんな海岸だから、昔も様々なものが流れ着いただろう。虚ろ舟が、実際は何だっのかはわからないが、乗員が元気で終始ニコニコしていたというのだから、狭い舟に閉じ込められて沖へ流された王女ということはないだろう。舟に書かれていた文字というのも、見覚えのあるものではない。...だとしたら、それはいったい何だったのか。今でも、実家に帰ると、ふと海岸に出かけてぼんやり過ごすことがあるが。地球の丸さを実感できる水平線を眺めていると、得たいのしれないものが上陸してくるような気がすることがある。

 ここから20kmほど南にある明石浜には、鹿島神宮の東一の鳥居があって、荒波の打つ寄せる鹿島灘の沖合いを仰いでいる。

大竹海岸にある虚ろ舟のモニュメント。じつは滑り台を兼ねた遊具。夏が過ぎた海には人影もなく、今にも、何かが沖からやってきそうだ。
N36°09′05.2″
E140°34′59.8″(Tokyo測地系)

明石浜にある鹿島神宮東一の鳥居。この鳥居は、いったい、何を拝んでいるのだろう?
詳細は「鹿島トライアングル ―東国三社と巨石信仰の謎―」でどうぞ

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