東国三社が描き出す直角二等辺三角形

 ぼくは茨城県の海沿いの町で生まれ、高校を卒業するまで暮らした。そこは、「鹿島立ち」で有名な鹿島神宮(関東P56-D4)もほど近く、 よく出かけていったものだった。

 大きな木立に囲まれた境内は、とても広く、静かで、包容力の深さを感じさせた。幼い頃は、 境内にある「鹿園」で鹿に餌をあげた後、御手洗池の辺の茶店で甘酒を飲むのがお気に入りのコースだった。その後、この神社を取り巻く静かな雰囲気が好きで、 よく一人で気晴らしに訪れたものだった。


 レイラインという観点から鹿島神宮を見なおしはじめたのは、この数年のことだが、そんなふうに視点を変えてみることで、 自分がこの神社に魅かれてよく出かけていたことの意味が、わかった気がした。ここは、実際に足を運んでみると、 なんとも言えず心地のいい場所なのだ。

 若い頃のぼくがよく訪れたのは、べつに、深い信仰心からではなく、 ただ、この場にいると心が落ち着き、気持ちが良かったからなのだ。それは、レイラインを形作った太古の人々の感覚に近づくことでもある気がする。

 その鹿島神宮と千葉県の佐原にある香取神宮は、ともに武神を祭る兄弟社ともいえる神社であることは昔から知っていた。 だが、この二社に神栖町にある息栖神社を加えて、「東国三社」と呼ばれることは、恥ずかしながら、最近まで知らなかった。

 由来を調べてみると、この東国三社は、はるか1000年以上の昔から、極めて結びつきが強かったことがわかる。 『古事記』では、建御雷神(たけみかづちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が天下り、建御雷神が日本国の支配権をかけて建御名方神(たけみなかたのかみ) と相撲をとり、これに勝った建御雷神が日本国の支配権を握り、負けた建御名方神は諏訪に引きこもったとされている。『日本書紀』には、天照大神が武甕槌神 (たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)を地上に遣わしたとある。

 この記紀神話に登場する武甕槌神を祭るのが鹿島神宮であり、経津主神を祭るのが香取神宮、そして天鳥船神を祭神とするのが息栖神社なのである。

 この東国三社をデジタルマップで結んでみる。するとそこにはきれいな直角二等辺三角形が浮かび上がってくる。鹿島神宮と息栖神社を結ぶ線は、 ほんのわずか南北ラインから西にずれているが、息栖神社と香取神宮を結ぶ線は完璧に東西ライン上にある。鹿島神宮と香取神宮を結ぶ線は1200m、 鹿島神宮と息栖神社の間は9155m、息栖と香取は8597mという値を示した。ただし、これは、それぞれの神社のどこを基点とするかで微妙に変わってくる。

 一応、便宜的にそれぞれの本殿の中心を基点としてみたが、たとえば、後で説明するように鹿島神宮は奥の宮が本来の本殿であったと思われるし、 香取神宮も本殿と離れた場所に奥の宮が祭られている。また、鹿島、香取両社には、「要石」という伊勢神宮でいえば「心の御柱」に相当する御神体が、 やはり本殿から離れたところにある。息栖神社も「忍塩井」という特徴的な御神体が本殿から離れたところにある。プリミティヴな自然崇拝を基準にすれば、 これら自然事物の御神体を結ぶのが正しいといえそうだが、逆に自然事物の持つ力をコントロールするために、様々なオブジェクトが配置されているとしたら、 それは間違いということになる。それぞれの神社のどこを基点とするかによって、この微妙な数値は変動する。

 

鹿島神宮、香取神宮、息栖神社、東国三社を結ぶと現れてくる直角二等辺三角形。鹿島神宮でクロスする線は東西のライン。このトライアングルを中心に、周辺の神社を結ぶと、あちこちに意味のありそうなラインが浮かび上がってくる

 

 いずれにしても、10万分の一程度のスケールで、かなり正確な直角二等辺三角形が描けるとしたら、これは、意図的に配置されたと考えていいだろう。 記紀神話に残るように、東国三社は、歴史的に見ると、大和朝廷の東国進出のための拠点としての意味合いが強い。天照大神が武甕槌神と経津主神を地上に遣わして、 土着の神であった建御名方神を諏訪に放逐したという話は、そのまま、土着の支配者を大和朝廷の軍勢が攻略したと解釈できる。
 そして、この地に軍神を配置して、 さらなる東国進出の拠点としたわけだ。そのために、意味のある方位に三社を配置した。そう考えるとわかりやすい。ところが、話はそう簡単なものでもなさそうだ。 有力な氏族のひとつ中臣氏は、この地方に興ったといわれる。そして、朝廷で有力な地位を占めると、奈良平城京に春日大社を創建し、 古くから信仰されてきた鹿島の神を勧請した。その逸話は、たんに大和朝廷が土着の支配層を滅ぼして、自らの権威をそこに築いたわけではないことを物語っている。 
 出雲などにも当てはまるが、土着の神や信仰をうまく吸収して、その力を積極的に利用するのが、大和朝廷の一つの特徴でもある。それは、土着のケルト信仰を取りいれて、 元々そこにあったドルイド(ケルトの信仰体系)の聖地をキリスト教の聖地に置き換えたイギリスのやり方に極似している。  

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