本殿と奥の宮

 香取神宮が経津主神の和御霊と荒御霊をそれぞれ本殿と奥の宮に分けて祭るのと同様に、鹿島神宮も祭神である武甕槌神の和御霊と荒御霊を本殿と奥の宮に分けて祭っている。

 少し前に触れたが、本来の参道は、北にある御手洗池から奥の宮に向かうのが順路だった。それがどうして、裏参道のほうがメインとなったのか、それは不明だ。

  本来の参拝順路を辿ると、御手洗池から坂道を登りきったところ、正面に奥の宮が現れる。この奥の宮は、かなり立派な構えで、参拝客が訪れる時間帯には、門は開かれている。荒御霊を祭るわりには、和やかな雰囲気に包まれている。そして、奥の宮から本殿のほうに向かわずに、横の細道をまっすぐ辿ると、要石がある。

 鹿島神宮の奥の宮は、まるで、その背後に要石を守るように、配置されているのだ。魂のより根源的な、虚飾されていない荒御霊。荒御霊が年降り、ときに災いをもたらすほど荒々しいその性質が削ぎおとされたとき、丸く穏やかな和御霊となると言い伝えられている。だが、この鹿島も香取も長い年を経た今も、荒御霊は荒御霊のまま祭られている。

 それは、本来この地にあった神を荒御霊として祭り続けているということではないのか? そして、その信仰の対象は、太古からここに存在した要石ではなかったか...。 

 

鹿島神宮境内。本殿と奥宮、要石を結ぶと、ここにも直角三角形が出現する。本殿と神門を結ぶラインは、香取=鹿島ラインの延長で、明石浜にある東一の鳥居に突き当たる。その方向は、冬至のときの日の出の方向でもある

武甕槌神の荒御霊を祭る奥宮。本来の参道である御手洗池のほうから上がってくると、この社が出迎えてくれる。そして、この社の背後の森の中に、ひっそりと要石がある

 鹿島神宮を訪れる観光客は、皆、大鳥居を潜り、本殿にお参りした後、御神獣である鹿のいる鹿園で一籠100円の餌をあげた後、奥の宮を一瞥するだけで、御手洗池へ行ってしまう。奥の宮のさらに奥にある要石まで回る人はほとんどいない。 ぼくは、観光客がいない奥の宮から要石の参道を辿りながら、こちらに鹿島の本質があるのではないかと思った。

 東北には、大沼のストーンサークルに代表されるような巨石信仰がある。それは、レイラインの存在が最初に報告されたイギリスで、ストーンヘンジに代表される巨石信仰があることに奇妙に符号する。それはさらに、ピラミッドやインカ、マヤなどへも繋がっていく。また、古代ケルトの遺跡をそのまま取りこんでキリスト教の信仰体系の中に組みこんだ、その手法に通じるものも感じてしまう。 

 話がやや横道にそれてしまった。ここで、鹿島神宮内の各社などの配置を再検証してみよう。

 要石は、本殿からほぼ東の方向にある。奥の宮は、北東方向。この三点を結ぶと直角三角形が現れる。さらに、本殿と神門を結ぶ線は、それを南西にそのまま伸ばせば香取神宮へ辿りつく。逆に北東方向に伸ばすと、明石浜で海を拝む鹿島神宮東一の鳥居に当たる。つまり、鹿島神宮の東一の鳥居から、神門、本殿、香取神宮本殿は直線上にきれいに並ぶのだ。 しかも、この線は、冬至の日に日が登る方向を指している。

 太平洋に登った朝日の光線は、明石浜の東一の鳥居を照らし、さらに鹿島神宮神門を通って本殿を照らす。それは香取神宮本殿を浮かびあげるのだ。 

 鹿島神宮の本殿は、非常に古い造りの建物といわれる。出雲大社と同様の造りで、ふつう南を向く本殿は北を向いており、中に安置された御神体は東を向いている。御神体が東を向くというのは、「日奉」の形式として知られているが、そこにあるのは要石だ。 

 明石浜の東一の鳥居を訪ねると、街道から鳥居へ向かう参道の入り口に、小さな社がある。その鳥居を見上げると、そこには「息栖神社」とある。そう、東国三社のあの息栖神社の末社が、ここにあるのだ。

 じつは、鹿島、香取、息栖の三社は、ここから北のほうへ向かうと、いくつもセットで現れてくる。それは、あたかも、東国を平定する前進基地が伸ばされていった痕跡がそこに残されているかのようだ。 また、もう一つ。香取神宮でも息栖神社でも、稲荷が境内に祭られ、重要な位置を占める配置になっていたが、この鹿島神宮にも、境内末社として稲荷神社がある。そして、東国三社がセットで北の方向に連なっているその配置に寄り添うように、稲荷神社も配置されているのだ。

 

 

 


鹿島神宮から明石浜の一の鳥居は、北東にあたる。距離は4km弱。明石浜には、鹿島神社一の鳥居がある。そして、ここにも息栖神社が...

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