伊勢と第一行

 

 伊勢が創建されてから2000年以上、神域として大切に保存されてきた自然はそれだけで神々しい存在感を湛えているし、 「伊勢参り」に訪れた膨大な数の参拝者の思いが「思念」として残り、それらが「第一行」として強く感じられるのも当然だろう。

  だが、この地に天照大神が祭られた2000年前に想いを馳せれば、すでにこの場所に強い「第一行」があったからこそ、ここに落ち着くことになったと考えるのが自然だ。

 伝説では、第10代崇神天皇の時代に疫病が流行り、 その原因が天照大神=皇大御神(すめおおみかみ)を朝廷の中で祀っていることに起因するという神託が下りたのを機に、天皇の皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が「御杖代(みつえしろ)」となって天照大神を戴いて大和を発った。しかし、安置できる場所を確定できぬまま豊鋤入姫命は亡くなり、その遺志を継いだ第11代垂任天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が、ようやく伊勢に到着したと伝えられている。

 伊勢では天照大神を祀る役を代々「斎宮」と呼ばれる皇族の女性が務めることになったが、それは御杖代となった豊鋤入姫命と倭姫命に因んだものであった。

 豊鋤入姫命が大和を発ってから伊勢に落ち着くまで80年以上の間、 「伊勢」は、丹波、吉備、伊賀、近江、美濃等の諸国を転々とした。そして、各地で、いったんはそこに祀られながら遷宮された場所が、20ヶ所以上存在している 。それらの場所を「元伊勢」と呼ぶが、それだけ長きに渡って遷宮を繰り返し、最終的に今の伊勢に落ち着いたのは、伊勢の手つかずの自然の中に秘められた「第一行」が他の場所に比して強力で、かつ天照大神を祀るための条件が全て整っていたと判断されたからだろう。

 伊勢神宮で20年に一度行われる「遷宮」という風習は、ここへ辿りつくまでの変遷の歴史をなぞるためか、 あるいは天照大神を祀るためには、何かの理由で「遷宮」という制度が必要で、伊勢に落ち着くまでは、それが律儀に行われていたが、 伊勢に落ち着いた後に略式な形に制度化されたのかもしれない。 

  倭姫命が、最終的に伊勢に落ち着く際には、天津神を地上に導き案内した猿田彦命の裔である大田命が五十鈴川のほとりの霊地に導いたと伝えられる。

 今でも、猿田彦命と大田命は伊勢内宮の向かいにある猿田彦神社に祭られている。大田命に導かれたという故事は、 猿田彦命の導きや神武東征の際に現れて先導した八咫烏の逸話と同じ構造であることにも注目したい。

  豊鋤入姫命と倭姫命が巡り歩いた地に残された「元伊勢」は、 どうして今の伊勢のように終着点にならなかったのか。それは、天照大神を祀るためのある程度沿う条件は整えながらも、完全ではなかったか、あるいは何らか理由でその場所を離れなければならなくなったためだろう。後者なら、天照大神を宮廷の外に祀り直すことを口実に、「何か」が「敵」の手に渡るのを防ぐために逃げ伸びていったという可能性もある。そのあたりの秘密は、レイラインの旅を通して、次第に見えてくるかもしれない。

 伊勢が位置するのは紀伊半島の東だが、紀伊半島全体を見渡してみると、聖地とされる場所が異常なほど多いことがわかる。 神武東征神話にまで遡る熊野、修験のメッカである大峰、吉野、高野山……いずれそれらの土地もレイラインハンティングで辿るつもりだが、概観すると、 紀伊半島全体が最初から聖別された場所ではないかという気がしてくる。

 聖地はそこが「聖地」として位置付けられる前から特殊な場所なのだ。そこには、初めから「第一行」がある。

 長い旅路の末に伊勢が聖地として選ばれたのは、ここが最大の「第一行」を持っていたからだろう。 前置きがだいぶ長くなったが、いよいよ伊勢・元伊勢ラインの旅に出ることにしよう。

 

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