姫神山にまつわる神話とレイライン 

 今回のレイラインを巡る旅は、岩手県の盛岡市からスタートする。東北の巨石文化遺構とピラミッド伝説の山を繋いで現われた直線と三角形を結ぶのだが、そもそも盛岡の街からして巨石文化に縁が深い。

 市内中心部にある三石神社は、巨岩が三つ向き合った、まさに巨石遺構そのものをご神体としており、その一つの表面に「鬼の手形」とされるはっきりとした手形がついている。その岩の手形が、そのまま県名の「岩手」になったという。東北文化の中心地そのものが「岩」との深い関係を持っていることはとても興味深い。

 今回は時間の関係もあり、三石神社は素通りして、まずは姫神山へ向かった。盛岡といえば街の西に聳える独立峰、岩手山がまず目につく。平野の中に、いかにも荒々しい火山活動で出来上がった山容の男性的な岩手山。対して、街を挟んで反対側には、背後に連なる山波から優美な三角錐をもたげた姫神山が目を引く。

右の雲に頂きが隠れている山が岩手山。左に霞んで見える円錐形の頂きが姫神山。岩手山の裾野にある三つの頂きは、神話では、怒りに駆られた岩手山が送仙山の頂きを切り落とし、自分の肩に載せたものとされる。写真は八幡平へ向かうアスピーテラインの途中からの風景。(photo=(C)BMWBIKES 以下同)

 岩手山を夫に、姫神山を妻に見立てたこの地方の神話があるが、それは、この地に立って風景を見れば、現代人でも自然に連想しそうだ。それほど、男性的な岩手山と女性的な姫神山、それぞれの山容と、位置関係が絶妙だ。

 岩手山と姫神山を巡る神話には、送仙山というあまり目立たない山が登場する。神話では横暴な主人であった岩手山が、南にある早池峰山に懸想して妻である姫神山が邪魔になる。そこで、家来であった送仙山に、夜のうちに、自分の見えないところへ姫神山を連れて行けと命じる。

 そんな命令を受けた送仙山は、しかし、姫神山が不憫で連れて行くことができない。そのうち、夜が明けてしまう。まだ身近に姫神山がいることに気づいた岩手山は、激怒して、送仙山の首を刎ねてしまう。だが、姫神山とよりを戻し、冷静になった岩手山は、送仙山に申しわけなく思って、切り落とした首を自分の肩に載せた。

 送仙山は、実際、頂上部が平らな台地状の山容をしている。どことなく、年寄りが腰を屈めてうずくまっているようでもあり、神話の姫神山を不憫に思って行動に踏み切れない家来という姿がオーバーラップする。

 姫神山の北西にある送仙山は、じつは姫神山と大湯環状列石を結ぶちょうどその線上に位置している(上の写真は、レイライン上から送仙山を遠望したところ。GPSの矢印が正確に送仙山を指している)。姫神山と送仙山との間には遮るものがなく、どちらからもその山容がはっきりとわかる。興味深いのは、送仙山の姫神山と向き合う反対側に、浮島古墳と呼ばれる奈良時代末期のものとされる墳墓や竪穴住居跡があることだ。さほど目立つ山ではなく、周囲の山と比して標高も高くない送仙山が、神話上、重要な役割りを果たし、麓には古代の遺跡を眠らせている。そこには、この山の持つ何か大きな意味がありそうな気がする。

 長野県の松代町には、地質が周囲とまったく違い、重力異常があったり、太平洋戦争末期に大本営がその地下に大規模な防空壕を構築して天皇家を含めて日本の中枢を移転しようとしていた皆神山がある。送仙山は、その山容とともに、山の持つ雰囲気が奇妙に皆神山にオーバーラップする。

 送仙山から西へ12kmの場所には、釜石環状列石がある。扁平な安山岩を並べた直径12メートルに及ぶ環状列石で、中央に直径1.5メートルの石組がある。そこでは、火を焚いた跡がある。さらにメインの環状列石の周囲には直径3mほどの小さな環状列石が衛星状に並び、北側に石を敷き詰めた祭壇状の張り出しがある。このストーンサークルは、岩手山の真北に位置している。岩手山は、いまだに盛んに火山活動を続け、その山容も絶えず変化している。釜石環状列石は、ちょうど現在の山頂カルデラと西のカルデラ湖の中間付近、つまり台形の山頂部のちょうど中間と同じ緯度上にある(写真は本来の場所ではなく、近くの公園に再現されたもの)。

 一般に、環状列石は墳墓と想定されているが、この釜石遺跡は、焚き火跡や祭壇らしき跡がはっきりしており、墳墓であることを示す人骨や副葬品が見つかっていないことから祭祀遺跡だと推定されている。岩手山を南に仰ぐロケーションから見ても、岩木山をご神体として仰ぐ祭祀がここで行われていたことは間違いないだろう。火を焚いたのは、いまだに盛んに火山活動を続ける岩手山の活動中の姿に照応させたものだろう。

 

 

 

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