能登・イルカ伝説と陰陽道 vol2―尖山‐気多大社ライン―
 
  北緯36゜30'33"ライン

 イルカとシャーマンにまつわる話に入る前に、まず、能登周辺のレイラインを概観してみたい。

 すぐに本題に入れと叱られそうだが、一見独立して関係なさそうに見えるスポットを結んでみることでレイラインが浮かび上がってくるように、レイラインも一本のラインが独立して存在するというもののほうがむしろ珍しく、ほとんどのレイラインは周辺のレイラインと深い相関を持っている。それは、もちろん、今回紹介するイルカにまつわるラインでも例外ではない。

 まず注目したいのは、「金砂大田楽とレイライン」の第四回で紹介した石川県松任市の「石の木塚」と茨城県日立市の「宿魂石」を結ぶ北緯36゜30'33"ライン。

 このラインは、能登の付け根を東西に横切っている。謎の列石「石の木塚」から泰澄大師が開山した奥医王山を結び、それをさらに東へ伸ばしていくと太平洋岸で宿魂石にぶつかる。このラインの西端と東端で、竹内文書で有名な皇祖皇太神宮にまつわる共通点があることは、すでに「金砂大田楽とレイライン」で紹介した。

 ラインの北側の同じような位置に昭和初期に移転するまで富山にあった皇祖皇太神宮と茨城県の磯原に移転した後の皇祖皇太神宮があるのがわかる。東端を見ると、その南に鹿島神宮がある。この周辺は、鹿島郡となる。図には記していないが、能登の中央部にはやはり「鹿島郡」があり、東端の金砂大田楽と同じ形式の平国祭がある。

 金砂大田楽の舞台となる東西金砂神社の祭神は大物主神=大国主神であり、平国祭も大国主神と少彦那神がその主役になっている。そして、この北緯36゜30'33"ライン上には、大国主神を祭った神社が多く点在している。この、大国主神にまつわるレイラインということをまず覚えておいてほしい。

 それから、奥医王山を開いた泰澄は、日本三霊山のひとつ白山の開山の祖でもあるが、後で説明するイルカラインにも非常に関係の深い人物なので、その名を覚えておいてほしい。

 

  尖山−気多大社ライン

 次に上の図。これは、富山県の立山町にある尖山から石川県羽咋市にある能登一の宮気多大社(この神社の祭神も大国主神だ)を結ぶラインだ。

 尖山はその麓にある雄山神社(前立社壇)の御神体ともされている山で、ここを基点にしたレイラインもこのライン以外に何本かあり、また、その均整のとれた円錐型の山容が、人工ピラミッドではないかと推測されている山でもある。

 尖山の北西麓は天林と呼ばれ、まるで滑走路を思わせるような平地になっている。その先には、雄山神社がある。雄山神社は、立山山頂に元宮があり、麓の立山町芦峅寺に里宮、そして、この岩峅寺に前立社壇と、三つの宮で構成されている。立山信仰の本尊である立山がもちろん中心だが、この前立社壇が尖山を仰ぐように、立山信仰がそれ以前からあったプリミティヴな信仰を習合して体系化されたことをうかがわせる。

 さらにラインを辿ると、レイラインハンティングでは何度も登場してくる皇祖皇太神宮がある。ここは、地図には「皇祖皇太神宮跡」と記されているが、実際に訪れてみると、常駐する神主のような人は居ないものの、参道も拝殿も奇妙なほどきれいに掃き清められている。

 そして、今は茨城県の磯原にある皇祖皇太神宮がいまだに、ここを管理していることが明記されている。それにしてもきれいに整備された境内の様子からは、かなり頻繁に人が訪れて手入れをしているように見受けられるが、茨城からここまでは、そう頻繁には通えないはずだ。まだ、富山のほうにも熱心な信者がいて、ここを守っているのだろうか。

 皇祖皇太神宮では、神代文字で記されたとされる竹内文書が発見され、そこには、キリストやモーゼ、モハメットや孔子、釈迦....と思いつく限りの偉人たちの名が列挙され、それがみな、この神社で修行したと記されていたという。その記述をもとに、青森県の戸来村(現新郷町)にキリストの墓が特定されて、今は観光地となっている。もう一つ、モーゼの墓と言われるものもあって、それは、ここに示したラインの近くにある。どうやらこれは、古い古墳を無理やりこじつけたもののようだが、皇祖皇太神宮の正確なレイライン的配置を見ると、「荒唐無稽」や「誇大妄想」と一言で片付けられない何かが感じられる。

 さらに気多大社の方にラインを辿ると、二上射水神社がある。背後に聳える二上山は、「玉櫛笥(たまくしげ)、二上山に啼く鳥の、声の恋しき時は来にけり」と、国司として派遣された大伴家持が万葉集に歌ったように、大和の二上山と同じ二つの峰を持つ山だ。大和の二上山が、伊勢斎宮から長谷寺、三輪山、箸墓、と繋がる「太陽の道」の日が沈む場所として聖別されているように、このニ上山も、古くから聖地として崇められている。

 二上射水神社の祭神は「二上神」とされているが、この神様の由来、詳細は明らかではない。一説には、大己貴命=大国主神ともいわれる。大国主神だとすれば、能登一の宮の気多大社と共通であり、「能登大国主ライン」の重要な拠点として、深い意味を持つことになる。

 この二上射水神社には、「築山神事」という不思議な儀式が伝わっている。

『古代信仰では、神は天上にあり、祭に際して降臨を願うものとされた。この行事は毎年四月二十三日二上射水神社の春祭に行なわれる。境内の三本杉と呼ばれる大杉の前に、社殿に向って築かれる臨時の祭壇は、幅四間、奥行三間、上下二段になっており、上段中央に唐破風の簡素な祠が置かれ、その前に日吉、二上大神、院内社三神の御霊代である御幣が立てられる。屋根の上には斧をかざした天狗が立ち下段には甲冑に身を固めた四天王の藁人形が置かれ、祭壇のまわりは造花で飾られる。
 祭礼の前日の夕刻、頭屋にあたる山森氏(御幣ドン)と神主が二上山頂にある奥の御前の日吉社から御幣に神を迎える。一夜自宅でお護りし翌日築山に移す。院内社は祭の当日迎えられる。
 祭儀は、午後二時から行なわれ社殿で例大祭の儀式が済むと三基の神輿が巡行する。ゲンダイジンを露払いに、御幣ドン、神主が続きその後院内社、二上大神、日吉社の神輿が続く、途中で院内社の神輿だけが一旦鳥居の外に出て、戻って二上大神と日吉社の間に割って入る。これを「院内わりこみ」という。その後、築山の前と天の真名井の前で祝詞が奏上され、本殿の前に戻って儀式が終る。祭儀が終ると築山はただちに解体され片付けられる。遅れると神様が荒れるという。
 この行事は、天上から臨時の祭壇に神を迎える古代信仰を本義を良く残している。又動かぬ築山がやがて動く曳山へと発展していったと考えられており高岡御車山の原初形態を知る上でも貴重である。又社殿の神事と古代信仰の築山神事の二重の神事を同日に行なっている点も興味深い。(高岡市教育委員会)』

 この築山神事からも、二上山が、古代から受け継がれた信仰の対象であったことがよくわかる。ちなみに、二上射水神社の本社は、明治8年(1875)に高岡城内に移され、現在のこの場所は分社の格付けになっている。

 旧来は、射水神社の境内から二上山山頂までが社領であったと思われるが、現在は、射水神社の背後の中腹には、イスラム風の奇妙な建物があり、その場所から山頂一帯にかけて、新興宗教団体の私有地になっている(その詳細は調査中=情報があったらお知らせください)。

 さらに、ラインを北西に辿ると、氷見の特産である瓢箪石の産地がある。これは君が代にも歌われる「さざれ石」のような石で、人工のものではなく、地中の砂岩層の一部が炭酸石灰によって固結してできたものだろうといわれている。いずれにせよ、他では見られない特別な環境要因があって生成されたものである。これが尖山-気多大社ライン上に位置しているのは、このラインが、大地の営みを可視化したものであることの一つの証しであるとはいえないだろうか。能登のレイラインが、明白に大地の営みをマーキングしたものであることは、この後、イルカラインの項で明らかにしよう。

 さて、いよいよ、能登の要ともいえる気多大社に辿り着いた。能登一の宮、祭神は大国主神。太古、出雲の国を出た大国主神が、この地で上陸し、土着の神である少彦名神と協同で、能登を平定したと伝えられる。

 その平定の足跡が平国祭として残り、さらにそれがイルカラインへと繋がっていく。

 

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