近畿の五芒星を巡る


■熊野-------------------

 さて、四国から和歌山へ渡り、今度は熊野本宮を目指す。中世に、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどたくさんの巡礼が押し寄せた熊野は、修験道の故郷でもある。日本山岳修験学会という団体の末席を汚す身としては、自分の精神的支柱のルーツでもある。無限に山並みが重なり「果無山脈」と形容される熊野の山に入ると、いつも身が引き締まる。

 いまだに手つかずの自然が多く残り、人を拒むような紀州の山は、剥き出しの自然の荒々しさを感じさせる。重畳とした山の連なりを幾つも峠を越えて進んでいくと、谷の一つ一つで空気が変わるのがはっきりわかる。ところによっては、峠のこちらでは晴れていたのに、向こうは土砂降りといったこともある。それを土地の人たちは、当たり前の身近な存在として、「熊野の荒ぶる神々」と呼ぶ。

 なにしろ、熊野の荒ぶる神々は、その中心ともいえる熊野本宮大社を社殿もろとも一切合財洪水で押し流してしまったりするのだ。

 今ある熊野本宮大社は、明治22年の洪水で流されたものを再建したもので、それ以前は、今の場所から500mほど離れた熊野川の中洲にあった。そこは大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、今は田んぼの中に巨大な鳥居があって、その向こうに小さな祠が二柱鎮座している。

 本宮大社は、明日香藤原京、平城京、平安京と同じ経度に位置している。つまり、これらの土地は、南北に一直線に並んでいるわけだ。そして、この南北線は、近畿の五芒星の中心を貫いている。熊野から吉野へ抜ける大峰修験の道は、まさにこれに沿っている。

 果無山脈の奥深く、そこには、何かがたしかに隠されている。それを求めて多くの修験者、山伏が踏み入り、空海はここに真言の本拠地、高野山を置いた。

 一説には、空海を含めた修験者たちが求めたのは不老長寿の薬の元となる「丹」だという。丹は、水銀のこと。彼らは果無山脈の奥に水銀鉱脈を捜し求めていた。彼らだけではなく、秦の始皇帝に、やはり不老長寿の薬を探すために派遣された徐福も、伝説ではこの熊野に足跡を残している。いや足跡を残しているどころか、新宮の速玉大社の側には徐福の墓すら存在する。

 山には不老長寿の薬があり、海に目を転じると、その先には補陀洛浄土があると信じられ、多くの僧が、補陀洛渡海と称して、帰らぬ舟を海へ漕ぎ出した。

 熊野には、人をひきつけて止まない何かがある。一度、熊野に足を運んで、その森と海の霊気に当てられてしまうと、幾度も足を運ばずにはいられなくなってしまう。そして、日常生活にかまけて熊野のことを忘れていると、土地のほうからその記憶を喚起して、呼び寄せようとする力が響いてくる。

 今回、五芒星の聖地を巡る旅を決めたとき、不思議な偶然が二つ重なった

一つは、熊野に住む古い友人から、数年ぶりに電話が掛かってきて、彼の父親が春に亡くなり、今年、新盆を迎えるという知らせがあったこと。ぼくが熊野に足を運ぶことになったのは、学生時代に彼の実家に遊びに行ったのがきっかけだった。そのとき、まるで家族の一員のように親しく接してもらった。とくに彼の親父さんにはお世話になった。ぼくは、早くに父親を亡くしたこともあって、どことなく亡くなった父親に面影の似ている彼の親父さんは、親しみを覚える存在だった。親父さんのほうも、同じようにぼくのことを思ってくれていたのだろう。友人である当人がいないときにひょっこり訪ねても、我が子のように自然に歓待してくれた。

 そんな恩義のある人が亡くなっていたことを知らずにいたことがなんとも悔しかった。そして、必ず、その墓前に挨拶しなければならないと思った。

 もう一つの偶然は、まさに熊野本宮大社に関わっている。

 この神社のシンボルは、サッカー日本代表のシンボルにもなっている八咫烏(ヤタガラス)。神武天皇が九州を出て東征する際に、熊野でこれを待ち構え、案内したと伝えられる。その八咫烏の子孫とされるのが、京都下鴨神社の始祖、賀茂県主(カモノアガタヌシ)。その県主の子孫とされる人と、レイラインが取り持つ縁で知り合った。

 彼は中野の寺のご住職で、ロングツーリングを愛するライダーだ。彼は、毎年、春に自分の祖先を祭る熊野本宮大社に参拝ツーリングを恒例にしていた。初めは、彼が個人的に行っていた本宮大社への参拝ツーリングが、いつしか人を集めるようになり、気がつけば50人にも及ぶ大所帯となった。それが「二輪睦八咫烏」というパーマネントなツーリング同好会になった。今年のゴールデンウィークの参拝ツーリングにぼくも誘われたが、残念ながら、そのときは能登のほうを回っていたので参加できなかった。

 そのご住職が、急な病に倒れたという知らせが、やはり、今回の旅の準備をしているときにもたらされた。彼の快癒を祈願するという意味でも、熊野本宮大社には参拝しなければならなかった。

 八咫烏の旗が翻る鳥居を潜って、久しぶりに参道を行くと、今まで熊野を訪れた記憶が次々に蘇ってくる。人と人とが同じ趣味や嗜好から意気投合することは多い。たとえば、ともにバイクライダーであること、そして中でもビーマー同士であることなど……そんな趣味、嗜好の中でも、同じ土地が好きであるということは、根源的なところで気が合う人どうしではないかと思う。

 土地が直接心を刺激する根源的な力、個々の土地が持つプリミティヴな力を感得し、それに共鳴できる者どうしは、心の深い部分に共通のものを持っている。そんなふうに思う。

 ぼくは、熊野が好きだ。だから、同じように熊野が好きな人は、兄弟か親子のように感じてしまう。

 本宮大社にお参りを済ませた夜、中野のご住職が快方に向かわれたというメールが入った。

 親友の親父さんが眠る熊野灘に面した墓参りを済ませた後、その親友と昔話に花を咲かせていると、ぼくが修験道に傾注していて、熊野に深い関心を持っていることを知った彼が急に人を紹介すると言い出し、新宮の郷土史家と知己を得ることになった。ぼくは、やはり熊野の荒ぶる神々に呼ばれていたのだろう。

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