金砂大田楽とレイライン vol2―海からやってくるモノ―

 東西金砂神社から出発した大田楽の行列は、途中、田楽を奉納しながら日立の水木浜を目指す。その水木浜のすぐ側に大甕(おおみか)神社がある。先に紹介したように、金砂の鮑形大明神は大甕に収められて、神社に安置される。大甕神社とご神体を収めた大甕との関係は定かではないが、水木浜の近くにあり、しかも行列はこの大甕神社を通ることで、単なる偶然とも思えない。

 この大甕神社には「宿魂石」と呼ばれるものがある。宿魂石は日本書紀に登場する。天孫が東国平定の際に、鹿島神宮、香取神宮の祭神である武甕槌神(たけみかつちのみこと)と経津主神(ふつぬしのみこと)をこの地に遣わす。そして、ここに本拠を構える甕星香香背男という神との戦いになるが、二神は甕星香香背男に破れる。力を増した甕星香香背男は、宿魂石となって、この地にどっかりと腰を下ろす。そこで、次に武神として名高い建葉槌神(たけはつちのみこと)が遣わされる。建葉槌神は黄金の靴を履いた足で宿魂石を打ち砕き、見事東国平定に成功する。

 甕星香香背男は、蝦夷に信仰された古い神で、この逸話は、この地域が古代には蝦夷の一大本拠地であったことを物語っている。宿魂石は、今でも大甕神社の境内の傍らにある。もっとも、それは独立した岩というよりは、大甕神社のある大甕山自体が大きな岩槐を成していて、古代は、ここが強固な山城だったことを思わせる。

大甕神社の裏手の岩山を鎖を頼りに登ると、その頂上に社が現れる。ここからは、泉神社の森と、その先に水木浜が遠望できる。宿魂石は、蝦夷が本拠とした山城だったのだ

 大甕神社の前を通り過ぎた行列は、水木浜の手前で、泉神社に立ち寄る。人工的に作られたような均整のとれた丘の麓に、清水がコンコンと湧き出す池がある。これが泉神社のご神体で、池の真中に弁財天が祭られている。

 気候が穏やかで、山の幸と海の幸に恵まれ、清水が湧く泉もある。ここは、人が住むには理想的な環境の土地だ。この理想的な環境の中で平和に暮らしていた蝦夷は、海からやってきた大和朝廷の軍勢に破れ、北へと逃れていった。

 東西金砂神社、堅破山黒崎神社、真弓神社、花園神社は、常陸五山と呼ばれ、いずれも、宿魂石のある大甕神社のように険しい岩山の頂上に社がある。地勢的に見ると、軍事上の拠点となる場所で、侵略者である大和朝廷軍は、それらの場所を攻め落として、恒久的に確保する必要があっただろう。

 面白いことに常陸五山はいずれも大物主神を祭神としている。大物主は大国主命の別名、大穴牟遅神とも呼ばれ、土着の神「国津神」を象徴している。天孫が天下り、この地を治めた後も、土着の神を尊重してこれを祭っているのだ。

 単に軍事戦略的な意味合いだけでなく、先住民によって聖別されていた特別な場所、「第一行」の存在する場所として、どうしてもこの土地を手中に収め、土地の持つ力を利用する必要があった。その「第一行」は、ただ利用するだけでなく、手厚く遇する必要があった。それは、ケルト以前のプリミティヴな土地の力、「地霊」を利用するためにローマが聖地に教会を築いたのと、まったく同じ構図だ。

東西金砂神社を出発した磯出大田楽の行列は、各地で田楽を奉納しながら巡幸し、太平洋に面した水木浜を目指す。「磯出」は、文字通り、磯に出て、海からやって来る神を迎える行事なのだ

 かつて常陸と呼ばれた茨城の海岸線には、由緒の古い神社が多い。東国三社の要である鹿島神宮、大洗磯前神社、酒列磯前神社。いずれも、海に向いて、沖からやってくる「何か」を待ち受けているように見える。

 鹿島神宮は、この章の冒頭でも紹介したように、宿魂石となった甕星香香背男を倒すために遣わされた武甕槌神を祭る神社であり、その一の鳥居は、海から登る夏至の太陽の太陽を待ち受けるように、海岸に建っている。また、大洗磯前神社も酒列磯前神社も、その由来は、海からやってきた神様を祭ったものだ。しかも、この二つの磯前神社の祭神は大穴牟遅神と少彦名神だ。この二神は、天孫以前に国造りを行った古い神と伝えられている。天孫だけでなく、国津神も海からやってきたという由来があるわけだ。

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