金砂大田楽とレイライン vol3―水戸光圀と北茨城ライン―

 金砂大田楽については、自分の郷土に伝わる72年に一度の珍しい祭りということで、以前から注目していた。そして、これをなんとか自分の目で見てみたいと願っていた。なにしろ72年に一度の祭り。今回を見逃したら次回はない。そんなわけで、当初は、祭りそのものへの興味だけが先行して、これとレイラインとを関連づけては考えなかった。

 後から、シミュレーションしてみて、いくつもレイラインが引けることに驚くことになるのだが、古代から聖地として崇められてきた場所であることを考えれば、当然、レイラインの存在を想定してみるべきだった。

 古代信仰にまつわる聖地で、桓武天皇が平安京に数々の陰陽道、風水的仕掛けを施した時代に創建された神社がある。そして、東国平定に陰陽道的な仕掛けを用いた坂上田村麻呂の足跡も記されている。こうなれば、レイラインとの関係がないほうがおかしい。

 では、ここにどんなレイラインが存在するのか、それを検証してみよう。

 まず、北東から南西方向に4865m離れた東西の金砂神社を結ぶ。そして、そのラインを北東、南西方向に伸ばしてみる。すると、そこには、磯原にある皇祖皇太神宮と堅破山、東西金砂神社、陰陽神社が見事に並ぶ。

東西金砂神社の周辺図。北端の皇祖皇太神宮から、堅破山、東西金砂山、そして陰陽神社が一直線に並んでいる

 

堅破山から東西金砂神社と陰陽神社の方向をGPSで測る。いずれも241°を指し示す

 この四ヶ所は、いずれも「巨石信仰」という共通項がある。皇祖皇太神宮は、超古代に日本でピラミッド文明が栄えたと記された「竹内文書」で有名な神社。竹内文書自体は信憑性が怪しいが、この神社がピラミッドという巨石遺構を神聖視していることが知られている。現在は太平洋に面した磯原という場所にあるが、昭和初年にここに移転する前は、ちょうど真西にあたる日本海岸の富山にあった(富山と磯原の関係にも興味深いものがあるが、それは後述する)。

 堅破山は、頂上付近に不思議な形の巨石が累々とする山で、古くから武運の神として信仰されてきた。常陸国風土記には、崇神天皇の時代、東国平定を命じられた黒坂命が、この山に陣取る蝦夷を攻める。その際、「茨刺(うばら)」で壕を埋めてこれを攻め滅ぼしたと記されている。ちなみに、この逸話から茨城の名が生まれたという。八幡太郎義家が奥州遠征の途中、堅破山黒崎神社に立ち寄り、黒坂命が夢に現れ、一振りの刀を授けた。この刀で山中にある大石を切りつけたところ、その石が真っ二つに割れ、太刀割石と呼ばれ、それが転化して堅破山になったとも伝えられている。その太刀割石をはじめ、甲石、舟石、神楽石など、特徴的な形をした石がたくさんある。

常陸国風土記にも記述がある堅破山黒崎神社。山中には、太刀割石をはじめ、奇岩が累々としている。太古は、蝦夷の聖地として崇められ、黒坂命がこの地を平定してからは、武運の神として、東国平定に向かう朝廷軍は、必ず戦勝祈願に立ち寄った。ここにも磯出神事が伝わっていた。

 東金砂山と西金砂山は、それぞれ急峻な岩峰で、常陸国風土記には、「筑波山の他に肩を並ぶるものなし。壁立数百丈、能く雷雨を興す。筑波の雷は半国の雨、金砂の雷は一国の雨にして、五穀熟し、民人育む」とある。ここに記されているのは西金砂山であると推定されている。どうして東と西、二つの金砂山神社が置かれたかについては、諸説あるが、「両山の姿は金剛界と胎蔵界を表すという陰陽道的な解釈が有力だ。

 そして、いちばん南西に位置する陰陽神社は、頂上直下に陰陽石という対になった大岩を持ち、頂上部には、方位を表すように線が刻まれた岩や何かを供えたかのような凹みを持つ岩、文字らしき記号が刻まれた岩などが累々としている。明らかに古代の巨石信仰を物語る山だ。

 ここに陰陽神社を置いたのは、誰あろう、あの水戸黄門、徳川光圀だった。水戸徳川家は、初代藩主頼房の頃から古神道の流れを汲む吉田神道を庇護し、これを元にした改革を行ったことで知られている。ことに二代藩主である光圀は古神道と古い信仰体系である巨石信仰や陰陽道に並々ならぬ関心を寄せていたことが知られている。「鹿島トライアングル」の記事でも触れたように、光圀は、鹿島神宮のご神体である要石の正体を見極めるために、これを掘り起こさせようとしたりもしている。

 光圀は、晩年、阿武隈山地の南端に位置する常陸太田にある西山荘に隠棲し、当代の儒者を集めて「大日本記」を著した。西山荘は金砂大田楽の行幸の通り道にもあたり、常陸五山にも近い。早々に藩主の座を引退した光圀は、西山荘で、古代の叡智を探る事業に掛けていたのだ。

 その光圀が陰陽神社を創建して、堅破山から東西金砂神社に連なるラインを築いた意図は、何だったのだろう。そして、そのラインのさらに先に皇祖皇太神宮が創建されたその理由は....。

昭和初期、超古代に日本にピラミッド文明が栄えたとする「竹内文書」で世間を騒然とさせた皇祖皇太神宮。もともと富山にあったものが、何故、金砂ライン上に移転することになったのか?

東金砂神社の一の鳥居。これを潜り、右手の参道を進むと胸突き八丁の急な石段が現れる。それを登りきった東金砂山の頂上直下に神社がある

西金砂神社は岩肌が露出した山の頂上にある。水戸徳川家の前に佐竹藩がこの地を支配していた時代には、文字通り、ここは難攻不落の山城だった

陰陽神社のある陰陽山の頂上。ここには文字のような記号や方位を著すと思われる線が刻まれた岩が累々としている。ここからは、金砂の神が上陸した水木浜まで遠望できる

陰陽山にある不思議な岩の一つ。岩の上が明らかに人の手によって凹形に掘り込まれている。何か供え物でも置かれたのだろうか?

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