四国の聖地

【香川県三豊市・光りあふれる太陽の聖地】
mitoyo

 香川県西部に位置する三豊市は、日本一の日照時間を誇り、近代にはその太陽の恵みを活かした製塩業で栄えた。

 一年を通して温暖で、気候が安定しているこの土地には、太古から人が住み着いた痕跡が随所に見られる。その多くは、太陽を崇拝しその 恵みに感謝する祭祀遺跡を伴っている。

 古代から中世にかけては山岳修験の道場として栄え、多くの修行僧が瀬戸内海の海運を利用して集まる。空海も幼少時に修行し、彼の思想の 基礎を三豊の山において築き上げた。近世には、塩飽水軍に始まる廻船業によって栄え、仁尾は参勤交代や千石船が出入りする良港として、大 店が軒を並べる賑わいを見せていた。

 豊かに降り注ぐ太陽の光に感謝した太古の人々は、自分たちを生かしてくれる太陽の動きを観測し、太陽が生まれ変わりのサイクルを持っ ていることに気づく。

 冬至、太陽は弱々しく、日照時間はもっとも短くなる。太古の人間はこの日を太陽が死に、そして生まれ変わる日と考えた。そして、日差 しがもっとも強まり、昼がいちばん長くなる夏至を太陽の恵みが極大になる日として、五穀豊穣や子孫繁栄の祈りを太陽に捧げた。

 そうした自然信仰を「太陽信仰」と呼ぶ。太陽信仰は、人類にとってもっともプリミティヴな信仰であり、それはあらゆる宗教の基本として 位置づけられる。

 三豊市は恵まれた気候と地理的条件によって太陽信仰が色濃く残され、それが現代にまで力強く息づいている。三豊市における現代の太陽信 仰とその聖地を紐解くことによって、自然と人間との関わり、四国という土地が秘めた様々な歴史が掘り起こされ、新たな視点からの「太陽の 聖地=生命再生の聖地」として注目を集める大きな可能性がある。

 まず、冬至の日出と夏至の日入方向を正確に指し示す荘内半島が、太古の人々にとっての太陽の聖地の中心とされ、そこから、この方位を意 識した聖地配置や聖地構造が確認できる。荘内半島に伝わる浦島太郎伝説もその例の一つである。さらに空海ゆかりの弥谷寺も、津嶋神社-弥 谷寺-我拝師山-大麻山-金刀比羅宮という荘内半島と同じ方位に並ぶレイライン(聖地を結ぶ有意な線)として見ると、空海以前の信仰体系 が見えてくる。さらに、空海という人物を形作った基層がはっきりとその姿を見せてくる。



荘内半島

  --冬至の日出と夏至の日入を指し示し、巨石信仰も見られる中心的聖地--

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 三豊でもっとも重要な聖地は瀬戸内海に突き出した荘内半島だろう。

 この半島は、下図で示したように冬至の日出と夏至の日入を正確に結ぶ。このような形をとる半島は、その地形的特性から太陽信仰の聖地 とされることが多い。

 荘内半島の場合はその中央部を七宝山脈という脊梁が走り、紫雲出(しうで)山や妙見山などのピークからは、半島全域と瀬戸内海の島々、 さらに遠く四国山地までが見渡せ、天然の太陽観測装置ともいえる。

 紫雲出山には弥生初期の高地性集落が見られるが、頂上部のストーンサークル遺構から、縄文時代に遡る祭祀場であったとも考えられる。ま た七宝山脈は花崗岩の露頭を伴い、花崗岩の巨岩を神の依代と崇めた太古の人々にとっては、その意味でも聖地とされる要素を持っていた。

 後述するように、妙見山は明らかな巨石信仰の聖地であり、ここでは冬至の太陽が巨石の形作る洞窟に導かれることで、太陽の再生、生命の 再生の象徴的な儀式が行われていたと考えられる。

 荘内半島北部域には浦島太郎伝説が残り、これに因んだ場所が点在しているが、荘内半島が太陽の再生=生命の再生を意識した聖地であるこ とからこの伝説が敷衍されたものであろう。

 今回は浦島太郎伝説ゆかりの場所を詳細に調査することはできなかったが、個々の場所の意味を検証していくことで、さらに具体的な不老不 死伝説の様相が見えてくることになるだろう。

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弥谷寺
  --空海ゆかりの死と再生の聖地--

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 弥谷(いやだに)寺は、かつて「イヤダニマイリ」という死者送りの風習が行われていた山岳信仰の色濃い聖地である。

 日本の山岳信仰では、死者は里に近い山にその魂が集まるとされた。恐山や立山、白山などがその典型であり、弥谷寺の背後に聳える弥谷 山はこの地方では随一の山岳信仰の場であった。

 弥谷寺は空海が7歳から12歳まで修行した道場として名高いが、ここにも冬至と夏至を意識した配置が見られ、空海以前の古い時代から死 と再生に関わる聖地としての特性を残している。

 さらに、俯瞰してみると海岸にある津嶋神社から弥谷寺、我拝師山、大麻山、金刀比羅宮は荘内半島と同じ方向を指し(下図)、大きな聖 地のネットワークを形作っているのがわかる。我拝師山は7歳の空海が身を投げて、自らの信仰を釈迦如来に問うた場所と伝えられ、明確な 「死と再生」の構図が現れている。

 同図では、金刀比羅宮の参道が夏至の日出方向に伸びているのも図示したが、この先には琴平電鉄の線路なども沿っていて、このラインが もっと大きな聖地のネットワークを形成していることが想像できる。

 日本には近世まで、春分・秋分や夏至・冬至の太陽を追って土地をめぐる「日巡り」という風習があった。荘内半島やこの弥谷寺を通過する レイラインは、そうした日巡りの巡礼たちが通った道であったのかもしれない。そして、空海もその一人であったかもしれない。

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海岸寺奥の院
  --空海出生の地の伝承--

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 空海は正伝においては宝亀五年(774)に善通寺で生まれたとされるが、この海岸寺は空海の母である玉衣御前の生家であり、空海もこ の奥の院で生まれたとする異伝がある。

 奥の院の構造は、参道が夏至の日出方向を指し、やはり三豊に共通する生命再生の聖地としての特徴を備えている。

 かつては空海自身が刻んだ空海像が祀られていたとされる。それが奥の院大師堂に安置されていたとすれば、毎年、夏至の朝の光が大師像を 浮かび上がらせ、空海が永遠の存在であるということをビジュアルに物語っていたのかもしれない。

 もしかすると、空海も自らの生地であるここに像を安置して、太陽の循環にリンクさせることで、自分の魂の永遠性を願ったのかもしれな い。




津嶋神社
  --素盞鳴尊と子孫繁栄--

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素盞鳴尊を祀る津嶋神社は、素盞鳴尊が五穀を携えて各地を巡り、五穀豊穣と子孫繁栄をもたらしたことから、とくに子供の守り神として信 仰を集めている。

 広い範囲で見ると下図のように、津嶋を起点として金刀比羅宮まで続く生命再生のレイラインが現れる。地理的に適地であることから聖地と され、あの世とこの世を取り結ぶ存在である素盞鳴尊を祭神とすることで、含意を込めたのだろう。

 古くは子供もまだあの世と繋がった存在と考えられていたので、それが子供の守り神という信仰を生み出したものと考えられる



妙見宮
  --太陽再生と黄泉返りの聖地--

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 荘内半島の基部に位置する妙見宮は、花崗岩の巨岩をご神体とする。

 社殿の背後の重なりあった巨岩には人一人が通り抜けられるだけの隙間があり、胎内めぐりの原型ともいえる修行が行われていたものと考 えられる。

 この岩の隙間は冬至の日の出の方向に開けていて、冬至の朝日は、まず社殿に射し、さらに岩の隙間奥深くまで射し込んでいく。

 普段は漆黒の闇の岩の内側に一条の光が差し込む様は、室戸で空海が虚空蔵求聞持法に没頭してついに悟りを開いた際に、彼の口の中に明 星が飛び込んだという伝説を彷彿させる。空海もその修行時代、この妙見宮の岩屋に篭った時期があるだろう。

 荘内半島自体が冬至の日出と夏至の日入方向を結ぶ形で瀬戸内海へ突き出し、半島全体が生命再生の聖地と目されるが、妙見宮はその基部に あって、冬至の太陽の光を半島へと呼び込み、これが冥界を照らし、黄泉返りをもたらすイメージを描き出している。その意味で、荘内半島に おける重要な聖地の一つといえる。

 背後の妙見山には、同様の巨岩が林立し、修験や山岳信仰の道場として、空海以前の早い段階から聖地とされてきたものと思われる。

 頂上からは荘内半島の突端まで見渡せる展望がひろがり、ここからは夏至の夕陽が半島の突端に沈んでいくのが確認できる。



大蔦島
  --下鴨神社の荘園とされた古代の聖地--

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 荘内半島基部の三豊市仁尾は寛治4年(1090)に白河上皇が京都の鴨御祖社(下賀茂社)へ寄進した内海御厨(みくりや)荘といわれ る荘園だった。下鴨神社から勧請された賀茂神社は、はじめ仁尾浦に浮かぶ大蔦島に置かれ、後に現在の仁尾市街に移された。大蔦島に残され た社は賀茂奥津宮と呼ばれ、賀茂神社の奥宮に位置づけられている。

 大蔦島は妙見山同様の花崗岩の巨岩が多数露頭した島で、島の北部の天狗神社には陰陽石が祀られ、古代から巨石信仰が伝えられてきたと考 えられる。また、目立つランドマークとして、高尾木山と志保山があり、それぞれ賀茂澳津宮からみて夏至の日出と冬至の日出方向に当たって いる。このことから、大蔦島も太陽信仰と巨石信仰の融合した聖地であったといえる。

 近代に仁尾は製塩業で栄えたが、その礎を築いた塩田忠左衛門は、この島を特別な場所とみなして、社殿や東屋などを整備した。そのことか らも、この島が近代までは聖地として崇められる場所であったことがわかる。  現在は無人島だが、仁尾から5分ほどで渡れる連絡船や、対岸からシーカヤックやSUP(スタンドアップパドルボード)で渡るツアーを地 元のアウトフィッター「フリークラ ウド」行っているので、これを利用するといい。

 島では、広い海岸にキャンプもできる。また主要なポイントを結ぶトレッキングルートも整備されている。荘内半島に整備された「四国の 道」と合わせた巡礼ルートを巡るのもいい。



木村神社・磐長姫神社
  --木之花咲耶姫と磐長姫が対になった稀有な聖地--

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 荘内半島基部の東海岸にある船越八幡社は1300年前の創建と伝えられ、この地方でも古い歴史を誇る神社の一つに数えられる。

 この神社の境内配置も夏至の日出と冬至の日入を意識したもので、北西に隣接する木村神社も同じ方位を指している。これはり古い太陽信 仰の名残であり、縄文時代にまで遡る聖地だったと推定できる。

 半島を挟んで西側にある家の浦集落は、かつては荘内半島の東海岸にある船越八幡社の氏子だったが、現在は家の浦にある大将軍神社(磐長 姫神社)の氏子として独立している。

 日本神話では、木村神社の祭神である木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と大将軍神社の祭神磐長姫(イワナガヒメ)はともに大山祇命 (オオヤマヅミノミコト)の娘とされ、姉妹である。

 二人は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に嫁がされるが、醜女であった磐長姫だけ返され、不老不死をもたらす神であった磐長姫を返してしまっ たことて、瓊瓊杵尊=皇孫は人と同じく寿命を持つことになってしまったとされる。  この神話から、木之花咲耶姫と磐長姫を対にするのはタブーとされるが、ここでは対で祀られる極めて珍しいケースとなっている。

 磐長姫神社の別名である大将軍神社は一般的には陰陽道に登場する八将神の一つで、『簠簋内伝』によれば牛頭天王の王子で、春夏秋冬・四気土用・行疫の神とされ、大歳神や 大陰神といった呼び方もされる。また、巨石を崇めるミシャクジン信仰から派生して、ミシャクジン→シャクジン→ショウグン→ダイショウグ ンと呼び名が変化する中で陰陽道の「大将軍」と結びついたものもある。後者の見方をすれば、 「岩のような容貌で、岩のように不老不死で あった」とされる磐長姫にイメージが合致する。

 この磐長姫神社も荘内半島全域に見られる不老不死のバリエーションの一つであり、木之花咲耶姫と対になっているのは他に類を見ないこ とから、 独特な聖地といえる。