伊豆の聖地

【遠い南方の島の記憶と『三宅記』】

 太古、伊豆は太平洋のはるか南に浮かぶ島々だった。

 それがフィリピン海プレートに乗って北西へ移動するうち一つの大きな島となり、ついに本州とぶつかって今の伊豆半島になった。このプ レートの衝突が地殻の底に眠っていた力を呼び覚まし、マグマを噴出させた。そして、富士山や箱根、さらに伊豆諸島の島々を生み出した。

 遠い南の島の記憶と湧き出した大地の力、それは、伊豆に独特の自然をもたらした。

 濃密な緑としっとりとした空気、大地の躍動の証 である温泉や火山地形、深い谷を穿つ川、荒々しい磯と真っ白い砂浜……この土地を愛した川端康成が「伊豆は南国の模型である」と賞賛した ように、伊豆は日本離れしたエキゾチックな雰囲気に溢れている。そんな自然が醸し出す魅力は、太古から多くの人間を伊豆に引き寄せてき た。

 大地から湧き出す力と太陽の力が交わる場所で祭祀を行った縄文の人々、変化に富んだ海岸線を辿って人智を越えた能力を掴もうとした修験者たち、不老不死の手がかりを求め て伊豆に辿り着いた人々……彼らの痕跡は、「聖地」として今に残り、神話に語られる神々が、それぞれの 聖地の個性を物語っている。

 昭和の文士や現代のアーティストたちが伊豆に惹きつけられてきたのも、彼らが古の人間たちと同じ感性を持っ ていたからだろう。

 鎌倉期に成立した伊豆地方の神代記である『三宅記』も伊豆の自然をよく捉えており、また伊豆の神秘的な歴史を伝えている。

 『三宅記』は三部からなり、第一部では「島焼き」という国創りの神話が描かれている。

 天竺に生まれた王子(三嶋神)が、継母の謀略によって父の怒りを買って国から放逐され、高麗を通って、孝安天皇元年に日本にやってく る。そして富士山に登ると、富士大神から富士山南麓の土地を安住の地として与えられる。しかし、この土地では狭く、新たに海底から焼ける 岩をつかみ出して、島を創ることにする。これが「島焼き」とされる。

 天竺の王子は、東海にある日本に土地を得て、そこに安住することを伝えにいったん天竺に帰国する。そして、再び海を渡ってやってきた 際に、上陸地の丹波で翁媼と出会う。この翁は天児屋根命で、「タミの実」を王子に渡し、さらに自分の三人の子、若宮、剣宮、見目を眷属と して王子につけて伊豆へと向かわせる。

 孝安天皇21年、王子は三人の眷属、さらに龍神、雷神とともに「島焼き」を行ない、七日七夜で十の島を生み出した。そして、島々には 后を配した。

 この第一部は、まさに火山活動によって海底から島ができる様子を伝えている。富士の大神から土地を得たというくだりは、伊豆半島が本 州と衝突して富士山を生み出した地質学的な事実にも符合する。また三嶋神が天竺からやってきた王子であるというのは、秦の始皇帝の時代に 東海にある蓬来山を目指した徐福の伝説を連想させる。徐福伝説は日本各地に残るが、丹波は上陸地として有力なところであり、紀伊半島の突 端の新宮にも徐福伝説が色濃く残っている。伊豆のほうでは八丈島や富士山麓に同じく徐福伝説があり、『三宅記』の第一部との符合が多いこ とが興味深い。

 第二部では、三嶋神が箱根で大蛇(龍神)を退治し、囚われていた三人の娘を后にして三宅島に迎える話が記されている。

 そして第三部では、三嶋神と壬生御館(みぶのみたち)との出会いから、三嶋神が三宅島から白浜に渡るくださりが綴られている。

 『三島記』における逸話は、そのまま伊豆半島と伊豆諸島に残る古社の構造に色濃く残っている。

 今でも、伊豆の神々(自然)はたくましく息づいている。伊豆の聖地を訪ね、神々の息吹に触れれば、生きる力が漲り、大自然と一体に なった無上 の安心感に包まれる。そんな伊豆の力漲る聖地を紹介しよう。

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