【水月湖畔、空海が求めたもの】 



■水月湖畔■

  10月初旬、招待されていた若狭・三方の宿、「湖上館PAMCO」を訪ねた。

 若狭湾に釣り針のように突き出した常神半島のつけ根、三方五湖の一つ水月湖畔に落ち着いたロッジ風の建物がある。客室やレ ストランからは、眼前に広がる水月湖が一望でき、鏡のようなその湖面に映る景色の変化を楽しめる。

 ぼくを招待してくれた田辺さんは、まだ30代前半の若い館主さんだが、高校、大学とボート部でならした体力と気力を武器 に、家業の発展と合わせて、若狭の恵まれた自然を生かしたマリンスポーツやアウトドアアクティビティと組み合わせた体験型観 光の普及に精力を注がれている。

 「エコツーリズム」、「グリーンツーリズム」といった言葉を最近よく耳にするが、そのほとんどは、欧米の受け売りで、各地 の環境に合わせたローカルな発想に欠けている。環境適合型の新しい観光コンセプトは間違いなく必要だが、マクドナルド型マ ニュアルの産物である金太郎飴エコ・グリー  ンツーリズム施設とノウハウの氾濫では、環境を守るために文化を台無しにしてしまうようなものだ。

 三方町の旅館組合長を兼務される田辺さんは、エコ・グリーンツーリズムの理念は生かしながら、若狭三方ならではの形とソフ トウェアを備えた「ミカタツーリズム」を模索している。
 

■空海が求めたもの■

 宿の前に広がる水月湖の対岸には、なだらかな起伏を描く雲谷山がある。雲谷山という名は、全国各地にあるが、その多くは 「ケラ」山と読み、鉄や水銀などの鉱脈を地下に抱えている。ケラ=鉧は、古代の製鉄法である「たたら製鉄」の際に、炉定で成 長する鉄のことで、これが精錬されて刀剣の原料になった。

 大地に秘められた力を火によって現し、鉄という形あるものに変える。たたら製鉄は、古代にあって、限られたものだけがその 技術を伝えるマジカルな「技」だった。その原料が地下に眠る場所は、文字通り聖地とされ、みだりに立ち入れる場所ではなかっ た。

 田辺さんをはじめ、地元の人たちは、この山を「くもたにやま」と、普通に訓で呼んでいた。鉧について説明すると、そういえ ば、「キラ山」と呼びますよ。麓の学校の校歌では、たしかに「キラ山」と歌われていますし、開けた山頂の地面は、雲母が多く 含まれていてキラキラ光るので、「キラ山」とも呼んでいました。と答えが返ってきた。雲谷山=キラ山=ケラ山と繋げてみれ ば、ごく自然だ。

 そして、この雲谷山の麓には、空海が足跡を残している。空海がここを訪れ、聖地と見立てた場所の岩に、一夜で観音様を彫り 上げた。それが石観音で、ちょうど雲谷山の西麓に  あたる。

 空海は、やはり、地下に眠る鉱物資源を探し求めて、諸国の山野を歩いた。前項でも触れたように、空海が求めたものは、錬丹 術で作られる不老長寿の妙薬の主要原料である丹=水銀だ。 

 石観音の本堂の手前に は、小さな滝がある。この滝壷周辺の岩は紅く染まっている。ちょうど鉄分の多い川の石が真っ赤に染まるのと同じ朱色をしてい る。

 じつは、この朱色は、空海や徐福が求めた水銀=酸化水銀の色でもある。修験や陰陽道では、これを「朱」と呼ぶ。

 大地に眠る力を呼び起こすたたら技術者たちは、古代の鉱山技術者でもあり、当然、他の鉱脈の知識にも長けていた。彼等の鉱 山、地質の知識は、山を修行の場とする修験者にも受け継がれた。若い頃、四国や紀州、葛城の山で修験者としてならした空海、 同じく、深山の霊気に触れて意識の飛翔を計る神仙道に通じた徐福。二人は、また鉱山技術者、地質学者としても有能であったは ずだ。

「この石観音には、スポーツ選手がよくお参りにくるんですよ。というのも、この観音様が、怪我に効くと伝えられているからな んです」
と、田辺さんは解説してくれた。

 寺の本堂に入ると、天井を奉納者の名前を書いたちょうちんが埋め尽くしている。その名を見ると、たしかにプロスポーツ選手 の名が目立つ。

 前にも紹介したが、山野を跋渉する修験者は、病を癒したり怪我  を治療するために、生薬や鉱物を使う。中でも、水銀=朱は、あらゆる妙薬のベースに用いられていた。

 今では水銀を用いるそ んな薬はなくなってしまったが、年長の修験者の中には、古代から伝わる薬の効果を体感したことのある人が少なからずいる。

 空海の足跡は、ここから、さらに南の遠敷(おにゅう)に移る。にゅう=丹生、これも水銀だ。空海が立ち寄り、霊泉が湧いた という瓜割滝。その滝周辺も、石観音同様、岩が真っ赤に染まっている。地中から湧き出し、流れ落ちる水は、霊水とされ、一帯 はみだりに立ち入ることが禁止されている。

 瓜割滝の南、遠敷川の辺には、鵜の瀬がある。ここは、やはり空海縁の東大寺で行われるお水取りの儀式に先立ち、お水送りが 行われる。

 東大寺二月堂のお水取りは、旧暦の2月1日から14日まで行われる行事で、二月堂の本尊、十一面観音に対し、連行僧と呼ば れる僧侶たちが一般の人々に代わって苦行を引き受ける者となり、国家安泰を祈る祈願法要。正式には、修ニ会と呼ばれ、お水取 りは、その中の一つの儀式だが、通称として修ニ会そのものがお水取りと呼び習わされている。

 連行僧の行う苦行や祝詞の作法には、修験道や神道の色が濃く残り、平安仏教、密教がこれらと混交していることがよくわか る。そもそもお水取りの由来は、実忠和尚が十一面悔過法要中に、全国の神の名前を唱えて勧請した際に、若狭の国の遠敷明神が 遅れ、その責任をとって明神が遠敷川から水を送ることになったとされる。二月堂の下にある閼伽井、通称若狭井から、お水取り に先立って、鵜の瀬から送られた水が湧き出すという。

 勧請に遅れた遠敷明神が恐縮して黒白二羽の鵜に姿を変えて飛び立った場所から霊水が湧したという。そこが閼伽井で、二羽の 鵜が降り立って場所が鵜の瀬と伝えられている。

 僧侶が神々を勧請したという故事にも、やはり修験道や神道の影響が色濃く残っている。

 空海は、若い頃に東大寺に入って修行し、唐から戻ってから別当に任ぜられた。お水取りの儀式が始まったのは、ちょうど空海 が別当であった頃で、修験道に通じた空海が、その作法を定めたと推定できる。

 東大寺を去った後、丹生川明神のテリトリーであった高野の山中に真言宗の総本山を築いた空海。その空海が、若狭に「丹」を 求め、密教の秘伝を使って奈良東大寺に導こうとしたものは、いったい何だったのだろう....。

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