伊豆の聖地

【伊豆辺路と伊豆山信仰の聖地】

 仏教や神道そして道教がブレンドされた日本独自の宗教として修験道がある。

 山がちの日本では、ほとんどどんな場所からでもその地方を象徴するランドマークである山岳が目に入る。そうした山は、海上航行の目安 としてあるいは都市計画などの位置基準として用いられ「山あて」と呼ばれた。また古来からの山岳信仰もそんな自然環境の中で育まれ、山は 神の宿る場所であり死者の魂が赴く場所として神聖視され畏れられた。

 そんな人界ではない場所にあえて踏み込み、人間の限界を越えて神に近づこうとするのが修験道の目的だった。

 修験の行者は山に伏して修行することから一般的に山伏と呼ばれる。また、彼 らは山だけでなく海岸の岸壁などを修行の場とした。それは海と接する懸崖が山と同様にあの世とこの世の境であると考えたからだ。

 修験の行場としては、紀伊半島の中央部を走る山岳を縦断する奥駈道や東北の出羽三山などが有名だが、四国遍路や熊野古道も、元は修験 の道だった。四国の遍路は、空海が若かりし頃、四国の修験道場を巡ったその軌跡を辿るルートを整備して、一般の信徒が巡礼するルートとし たものだ。四国の「遍路」や熊野に残る「小辺路、中辺路、大辺路」といったルートはもとはいずれも「辺路(へじ)」と呼ばれたもので、 「辺の道」つまり海岸線の道を意味する。

 そんな「辺路」がかつて伊豆にもあった。それは「伊豆辺路(いずへじ)」と呼ばれた。

 奈良時代、修験道の開祖とされる役小角が伊豆大島に配流となり、その際に現在の熱海走湯に渡って、ここを伊豆半島における修験の本拠 として開いたと伝えられている。役小角が開いた走湯権現は伊豆山神社となり、今も伊豆半島における重要な聖地として残っている。走湯山 縁起には、この伊豆山と富士山 が両界曼荼羅の出入口であると記されているが、それを体現して伊豆山神社の本殿は正確に富士山を背にして発祥の地である走湯を向いている。

 伊豆辺路はこの伊豆山神社を起点として、伊豆半島の海岸線を時計回りに辿って一周し、三嶋大社を経て富士山に至るもので、海岸線だけ でも300kmに達する。さらに伊豆半島の山脈を縦走する「伊豆峯路」もあって、これも含めれば総延長は400kmにも及ぶルート となる。距離は四国八十八か所を結ぶ四国遍路には及ばないが、伊豆辺路のほうが四国遍路よりもはるかに古く、また火 山地形が生み出した故の風景のダイナミックさは四国遍路を凌駕する。

 修行・巡礼路として、古代にすでに完成されていた伊豆辺路は、信仰の山としての富士山とも深い関係を持ち、日本を代表する巡礼路だっ たが、明治期の廃仏毀釈や修験禁止令によって急速に衰退し、現在ではわずかに痕跡を留めるだけになっている。

 伊豆辺路は、前章の「火山信仰と三嶋信仰の聖地」でも触れた伊豆半島・伊豆諸島の地球物理学的・地質学的な成り立ちを実感できる風景 を繋ぎ、そこに身を置くと大地の躍動が全身に沁みわたるような力に満ちている。伊豆辺路は「伊豆ジオパーク」として設定されるルートとほ ぼ重なっているが、それはかつて修験者たちが、大地から湧き出す力に自らをシンクロさせることで超自然的な力を獲得していたことを科学的 に証明しているともいえる。

 私の目には、「伊豆ジオパーク」はそのまま「伊豆辺路」の風景として、ありありと浮かび上がってくる。

 では、その伊豆辺路にまつわる伊豆半島の聖地をこれから紹介していこう。

izuheji



伊豆山神社
  --富士山と繋がる両界曼荼羅の聖地--
  izusan

 『熱海駅から北北東へ1.5kmあまり、道なりに緩く弧を描きながら北西へ折れていくと、鬱蒼とした緑に覆われた丘陵に吸い込まれるような伊豆山神社の参道に吸い込まれ ていく。進むほどに緑の密度が濃くなっていくこの参道を辿り、最後に長く急な階段を登り切ると、背後の緑に馴染んだ落ち着いた社殿が出迎 えて くれる。

 『梁塵秘抄』では、この伊豆山神社を次のように紹介している。 「(伊豆山は)我国第二の宗廟(第一は伊勢大神宮)と崇め、関東の総鎮守なり、往古より武門誓詞の証明、開運擁護の霊神と称し奉る。山中 の秘所は八穴の霊道・幽道を開き、洞裏の霊泉は四種の病気を癒し、二十六時中に十方の善悪・邪正を裁断したまう事、この御神の御本誓な り。八穴道とは、一路は戸隠・第三の重巌穴に通ず。二路は諏訪の湖水に至る。三路は伊勢大神宮に通ず。四路は金峰山上に届く。五路は鎮 西・阿蘇の湖水に通ず。六路は富士山頂に通ず。七路は浅間の峰に至る。八路は摂津州・住吉なり。四方の修験霊験所は伊豆の走井(走湯)、 信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆(鳥取)の大山、丹後の成相、土佐の室生、讃岐の志渡…」

 ここには、伊豆山がまるで全国の聖地をとり結ぶ中心地のように記されている。

 八穴の霊道は大げさにしても、伊豆山神社の方位を見ると、六路の「富士山頂に通ず」という記述が気にかかる。というのも、伊豆山神 社の本殿は方位角310°方向を背にしていて、その方向は富士山頂にぴったり一致するからだ。

 伊豆山の由来を記した 『走湯山縁起』には、伊豆山と富士山が、それぞれ両界曼荼羅の入口と出口に当たるという記述もあって、伊豆山と 富士山との関係が深いことを物語っている。これをデジタルマップで検証してみると、ただ単に本殿が富士山を背にしているだけでなく、富 士山と伊豆山神社本殿を結ぶ線上に、伊豆山神社の旧地である本宮神社も位置していて、明らかに有意な配置であることがわかる。

 両界曼荼羅は、修験道や密教の世界観で、この世である胎蔵界と大日如来を頂点としたあの世である金剛界二つの世界を示している。伊豆 山を開いたのは修験道の開祖である役小角とされているが、一方、役小角が遠流されて伊豆にやってくる以前から、山岳信仰の修行場であっ た形跡もある。異説では、役小角が活躍する以前、松葉仙人という山岳修行者が走湯権現を祀り、その後、木生、金地、蘭脱の三仙人が伊豆山 を開き、同時に伊豆辺路という伊豆半島の海岸部を一周する修行路を開いたとされている。

 伊豆半島の沿岸部には海蝕洞窟が数多くあり、そこで修験者が修行したという伝承も残っている。伊豆半島を一周する修行路は古くから 「伊豆辺路」として知られていたようで、さらにこれが富士山修験とも結びついていたことが推測できる。

 伊豆山を出発した修行者は伊豆半島を一周し、富士山麓の洞窟でさらに修行を続け、そこで悟りを開くといったプロセスは、走湯山縁起が伝 える伊豆山と富士山が両界曼荼羅の入口と出口に当たるという記述に符合している。

 伊豆山で修行成就の願掛けをして、伊豆半島を巡るうちはま だ俗界である胎蔵界で修行していることになる。富士山麓に達すると、修行者は深く暗い溶岩洞窟の奥底にある金剛界に足を踏み入れる。そして、ここでついに悟りに達した修行 者は再び明るい世界に戻ってくる。伊豆山神社の配置はそんな修行体系を物語っている。

 伊豆山神社の境内には、雷電神社という摂社が祀られている。これは、方位角220°で、背後に熱海の来宮神社を背負う格好で配置され ている。来宮はしばしば木宮とも記されるように、樹木信仰をベースに持っている。熱海の来宮神社は樹齢2000年を越えるといわれる大楠 がご神体とされ、神社の由緒には「元々は自然信仰の聖地だった」と明記されている。

 修験道は山岳信仰をベースとしていて、山に含まれる巨石や巨木も聖なる力が具現したものとして崇める。そういったことを考えると、熱 海の来宮神社はもとは伊豆山の神域に含まれる修行場だったのかもしれない。

 雷電神社の横にある手水は、紅白の龍の口から水が流れ出しているが、この紅の龍は火を表し、白は水を表している。火と水は陰陽五行 の概念ではともに消し合う「相克(そうこく)」という関係にあるが、ここでは、火に象徴される火山と、水に象徴される海が出合い、ぶつか り合ったところで大地が生まれ、さらにそのダイナミックなエネルギーの奔出が温泉を生んだととらえられている。また、雷電は火山噴火の 荒々しさを象徴しているといえる。

 伊豆山神社の祭神は、伊豆山神(天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、拷幡千千姫尊(たくはたちぢひめのみこと)、瓊瓊杵尊(にに ぎのみこと))の三神とされているが、これは明治の神仏分離令によってかなり強引に付会されたもので、実際には明らかではない。 そもそもが神仏習合の修験道の聖地であり、また火山信仰も含まれていたことを考え合わせると、ここは様々な神仏が混淆しあうプリミティヴな聖地であるといえるだろう。

 伊豆山神社の本殿に隣り合う形で、鬱蒼とした緑の中に白い鳥居が印象的な白山神社遙拝所が置かれている。白山神社の本殿は、この遥拝所の脇から続く登山道を10分ほど 登ったところにある。

 その白山神社の由来は、次のように説明されている。「天平元年夏、東国に疫病が流行した際、北条の祭主が伊豆権現に祈願したところ 『悪行のなす所、救いの術なし、これ白山の神威を頼むべし』との神託があり、猛暑の頃 であったにもかかわらず、一夜のうちに石蔵谷(白山神社鎮座地)に雪が降り積もり、幾日経っても消えず、病人がこの雪をなめたところ、病苦がたちどころに平癒したことか ら、この御社が創立されました」。ほんとうに真夏に雪が降ったかどうかは別として、白山を祀った点が興味深い。

 奈良時代の僧、泰澄によって開山された白山は北陸地方を代表する修験道のメッカだった。長い裾野を持つ白山は、加賀、越前、美濃の三方 から登山道があり、これは禅定道と呼ばれる。禅定(山頂)に至るまでが修験道の重要な修行であり、馬場(ばんば)と呼ばれる起点から長 い登山道を辿っていく中で修験者は様々な心の葛藤を体験し、禅定において悟達するとされる。

 伊豆山神社の白山神社遥拝所から登山道を辿 ると、白山神社、本宮神社を経由して十石峠まで行き着く。十石峠は別名日金山(ひがねやま)とも呼ばれ、青森の恐山のように死人の霊 が集まる場所として信仰されてきた。この白山神社遥拝所から伸びる登山道は伊豆山神社と富士山を結ぶラインにも一致していることか ら、白山禅定道と同じように、修験者が悟達に至るルートとして設けられていたのだろう。

 さらに、修験者は長い間山中に篭って修行を続け ることから、様々な病気に効く万能薬の処方を独自に持ち、常時これを身に着けていた。吉野のダラニスケや御嶽山の百草丸などが今に残っているが、病に苦しむ里人が伊豆山神 社に願掛けに訪れた際に、修行場から降りてきた修験者と出会い、彼らから万能薬を分けてもらっ て病気が快癒したことが、白山神社の伝説という形をとって言い伝えられてきたのかもしれない。

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城ヶ崎ピクニカルコース・城ヶ崎自然研究路
  --修験のルートを彷彿させる懸崖の道--
  izusan

 伊豆急城ヶ崎海岸駅から東に向かい、城ヶ崎海岸出ると、荒々しい溶岩と青い海から構成されるミニマルな景色に、この世ならぬものを感じさせられる。かつての修験者のよう に、この海岸を辿って巡礼していけば、空海が空と海しか見えない室戸の海で悟りに達したように、この世を突き抜けた境地に達することがで きるのではないかと素直に感じさせられる。

 現在では、荒々しい溶岩がむき出しの海岸部とそこから少し内陸に入った照葉樹林を貫いて城ヶ崎ピクニカルコースと城ヶ崎自然研究路が整 備され、誰でも安全に海岸線を辿ることができる。

 城ヶ崎を象徴する門脇吊り橋は、その真下に断崖を深く穿った海蝕洞窟が奈落に通じるような口を開け、腹を揺さぶるような波音が響いて いる。城ヶ崎ピクニカルコースの終点には蓮着寺がある。ここは日蓮が伊豆に配流になった際に流れ着いた場所とされ、本殿と参道が真っ直ぐ 東の海を向いている。日蓮も太陽を非常に意識した人で、これは、一年の節目の春分と秋分の朝日を大日如来に見立てて拝するための構造に なっている。

 蓮着寺から伊豆高原駅の間は城ヶ崎自然研究路となる。こちらはワイルドな風景の中を細いトレースが伸びるだけの道で、より昔の辺路の面 影を残している。

 途中、観音浜という入江があり、岩場を伝って波打ち際まで行くと、岩に穿たれたポットホールの中に嵌った見事な岩のボールを見つける ことができる。ポットホールとは、波に打ち付けられて欠けた岩が、さらに打ち寄せる波によって岩棚に擦り付けられることによって岩棚を 削った穴のことで、多くは岩棚を穿ったボールのほうは粉砕されて消失してしまうが、ここでは現在進行形で侵食が進んでいるところで、岩の ボールを見ることができる。こうした自然の造形も、昔の修験者たちの目には奇跡として映っただろう。火山から流れだした溶岩と海が出合う ことで生まれたこうした奇跡は、彼らには神の現れととらえられ、ご神体として崇められるようになった例も少なくない。

 人は古くから景観にインスパイアされて、様々な神話を生み出してきた。それは人が自然と共生関係にあることを誰もが理解し、自然よっ て自分が生かされているという意識を強く持っていたからだろう。今、各地で「ジオパーク」が誕生しているが、これも学術的な観点だけでな く、特別な地形と相対した人間が抱いた信仰に光を当てることによって、自然から疎外されがちなわれわれ現代人もより深くその土地の意味、 人と自然との共生の意味を理解できるのではないだろうか。

  オーストラリアの先住民であるアボリジニの創世神話は「ドリームタイム」と呼ばれる。アボリジニの祖先は、大地が形成されるとす ぐ、地中から様々な動物の形をしたトーテムとして地上に現れたと伝えられている。彼らは地上をさまよいながら、今の人間と同じように、生 活し、遊び、狩りをし、子供を産み、死んでいった。そんな彼らの痕跡は、岩や洞窟、湖、その他いろいろな特徴のある地形になって残り、最 後にはアボリジニの祖先たちもアボリジニをこの世に生み出したのちに、固まって様々な地形になった。それをアボリジニたちはドリームタイ ムと呼んだ。ドリームタイムは大地創造の時代であり、日本神話でいえば、イザナギとイザナミによる「国生み」の時代ともいえる。

 ドリームタイムが日本の国生み神話と異なるのは、ウルル(エアーズロック)やカタ・ジュタ(アボリジニの言葉で「多くの頭」の意味。 マウント・オルガ)といった特別神聖な聖地とされたところだけでなく、オーストラリアの大地に刻まれた大小様々な地形が、すべてドリーム タイムの物語を伝える重要な聖地と考えられてきた点だ。さらに、ドリームタイムの時代に放浪していたアボリジニの祖先たちは、細かな聖地 を結ぶ特別なルートを無数に持ち、それを伝えた。そのルートは"ドリーミング・トラック"あるいは"ソングライン"と呼ばれた。

 伊豆辺路を構成するこのトレッキングルートは、いうなれば修験者のソングラインだろう。懸崖に打ち付ける波音の中に風景の叫びを聞 き、そこに立ち上るゲニウス・ロキを「物語」として感じながら巡礼する。今でも、このルートを辿ると、自然と対話しているという感覚が押 し寄せる。

 城ヶ崎自然研究路の終点は、八幡野の港になる。港の端の岬には堂の穴と呼ばれる海蝕洞窟がある。ここは、八幡宮来宮神社の祭神が海の彼 方からやってきてここに漂着し、最初に鎮座した場所とされている。元々は修験者が篭って修行した場所であり、ここに篭っていた修験者が、 一般の人には奇跡と思えるような事績を行い、神として崇められるようになったのだろう。


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