伊豆の聖地

【火山信仰と三嶋信仰の聖地】

 『三宅記』に記された、伊豆の創世神話の神である三嶋神を祀る三島神社は伊豆でもっともポピュラーな神社だ。

 伊豆半島東海岸に面した三島神社の多くは、三嶋神ゆかりの地である三宅島を仰ぐものが多い。また、内陸に鎮座する三 島神社は遠く三嶋大社を 拝する方向に正対しているものが多い。それだけ、三嶋神・三嶋信仰へと繋がった火山信仰が強かった証拠ともいえる。

 また、この項では便宜的に三嶋信仰と来宮信仰、伊豆山信仰と分けているが、三嶋神が秘めた渡来民の記憶は来宮信仰に通底しており、また三 嶋信 仰と伊豆山信仰は山岳信仰という側面から密接に通じている。

 古来、伊豆は特別な土地とされてきた。それは、ときに火山の噴火として神の怒りを露わにし、また黒潮に乗った「異人」たちが漂着し て、彼らの神をもたらしたり、彼ら自身が神と崇められるようになったりしていたからだろう。

 延喜式内社は全国に2861ヶ所あるが、そのうち伊豆の国には92ヶ所が記されている。全国的にこれほど密集している場所は他にな い。また、宮廷に出仕していた亀卜を行う卜部は、対馬、壱岐、伊豆の三ヶ国だけが認められていたが、それも伊豆という土地の聖性の高さを 物語るものだろう。ちなみに、伊豆に亀卜の方法をもたらしたのも天竺の王子=三嶋神と伝えられている。

 まずは、そんな伊豆の火山信仰と三嶋信仰に関わる聖地を見ていこう。



白濱神社(伊 古奈比咩神社・いこなひめじんじゃ)
  --縄文祭祀遺跡を背負う伊豆の守護神を祀る社--
  shirahama 白濱神社の正式名 は伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)。主祭神は伊古奈比咩命で、さらに伊豆創世神話に登場する四柱の 神(三嶋神、若宮、剣ノ宮、見目(みめ)命)が祀られている。

 『三宅記』に記された伊豆創世神話は二段階に分かれる。まず富士の大神が駿河湾の底から焼ける大地を引き上げて伊豆半島を作り出し(国 焼き)、さらに富士の大神から伊豆半島を譲り受けた天竺の王子(三嶋神)が、富士山から土をいただいて海の中に島を作り(島焼き)る。こ の三嶋神の島焼きの際に協力したのが、若宮、剣ノ宮、見目(みめ)命の三柱の神々。伊古奈比咩命は三嶋神の后神とされている。

 伊豆創世の神々は、はじめ三宅島に祀られたがその後白浜に渡り、ここに祀られる。さらに三嶋神のみが白浜を離れて現在の三嶋大社に遷座 する。主人のいなくなった白濱神社では后である伊古奈比咩命が主祭神となったと伝えられている。

 三嶋神の本后は神津島の守り神である阿波命(あわのみこと)と伝えられているが、平安時代に三嶋神と伊古奈比咩命を名神として祀った とこ ろ、神津島が大噴火を起こし、これに驚いた朝廷が阿波命も名神に列したと『日本後紀』にある。もしかすると、三嶋神だけが遷座したのは、本妻 の怒りに慄いたからなのかもしれない。

 白濱神社が位置する白濱海岸一帯は、目に眩しい白砂の海岸が続き、いかにも女神を祀る場所らしい明るく爽やかな雰囲気に満ちている。初 めてこの神社を訪れたとき、私は、伊耶那美命(イザナミノミコト)を祀った花の窟を真っ先に思い出した。花の窟も同じように海に近い場所 にあって太陽の眩しさが際立つ白い岩と敷き詰められた白石が特徴的ないかにも女神の聖地らしい場所だ。

 伊耶那美命は夫の伊邪那岐命(イザナギノミコト)とともに、「国産み」を行なって、日本の国土を形作ったと日本神話に伝えられている。 伊耶那美命は最後に軻遇突智(かぐつち)を生み、その際にホト(急所)を火傷して亡くなってしまう。伊耶那美命が恋しくてたまらない伊邪 那岐命は、伊耶那美命を追って黄泉の国へと降りていく。しかし、そこで醜く変わり果てた妻の姿を見て恐れをなし、慌てて地上に逃げ帰って くる。花の窟には、黄泉の国に寂しく取り残された伊耶那美命と伊邪那岐命に斬り殺された軻遇突智が祀られている。主人である三嶋神は遠く に遷座し、妃神の伊古奈比咩命と属神が残されている構図も、花の窟にとても良く似ている。

 三嶋神は、三嶋大社では事代主神(ことしろぬしのかみ)として祀られている。事代主は日本神話の国譲りの場面で登場する。天津神が出雲 に降り、国譲りを迫った時に、大国主の長男である事代主は、国を譲ることを承諾して海に隠れてしまう。一説には、もともとは出雲の神では なく大和の葛城山の神である一言主の神格の一部で、葛城山周辺を本拠とした賀茂氏が氏神としていたとも伝えられている。伊豆半島の中部か ら南部にかけての広い地域は賀茂郡だが、これは大和の賀茂氏が紀伊半島を経由して黒潮に乗って伊豆半島に渡来してきた名残りだとされてい る。伊豆の創世神である三嶋神が事代主と同体ということは、三嶋神の変遷がそのまま賀茂一族の渡来の変遷を物語っているともとれる。伊豆 創世神話と日本神話の国生みの逸話がよく似ているのも、そこに賀茂氏の介在を考えれば納得できる。

 なんらかの理由で本拠地の大和から離れた賀茂一族の一部は、紀伊半島を縦断し、さらに熊野から船出して黒潮に乗って北上し、はじめは伊 豆諸島の島々に上陸する。そこからさらに伊豆半島の南部に上陸して、ここを新たな本拠地とする。さらに人口が増えたためか、あるいは一族 の中で方針が異なったためか、伊豆半島を北上していく一派が出現する。それが三島周辺に移り住み、本来の氏神である事代主の名を復活させ た。そんな流れが見えてくる。

 そうした民族移動の痕跡を伝えるとともに、それとはまったく別の文脈になる太古の信仰をベースにしたマジカルな性格が白濱神社には隠さ れている。

 白濱神社は、参道から拝殿そしてその背後の丘の上にある本殿までが一直線に配置されている。神社は通常南面する形で本殿も参道も向けら れているが、白濱神社は南面していない。拝殿の西側を回りこむ階段を登って行くと、明るいイメージの拝殿前の境内とは対照的に熱帯性植物 の濃い緑に包まれた厳粛な雰囲気の中に本殿がある。この本殿の裏手は禁足地となっていて、磐座を中心とした縄文時代まで遡れる古代の祭祀 遺跡であったことが確認されている。この祭祀遺跡から本殿、拝殿、さらにその先の参道が一直線上に連なっている。本殿から直線の先を見た 時、方位角235°で正確に冬至の入日の方向を指している。これは、逆に鳥居から本殿を向くと夏至の太陽の昇る方向であることを意味す る。

 古代、冬至は一年の終わりであり、太陽の再生を願う日とされた。一方夏至は、一年のうちでもっとも太陽の力が強くなる日であり、この日 の太陽には、五穀豊穣や子孫繁栄を願うのが習わしだった。こうした太陽信仰は世界共通であり、今から5000年前頃に世界中でピークを迎 える。日本では縄文時代の初期から中期にかけて、太陽信仰を色濃く残すストーンサークルやドルメン、メンヒルといった巨石遺構が数多く建 設された。

 後に紹介するが、河津来宮神社は縄文時代の段間遺跡(見高神社)と東西線上に並んで、春分と秋分の太陽によって結ばれる関係にあるが、 伊豆半島にはほかにもたくさんの縄文遺跡が点在していて、後に創建された寺社と同様の配置構造となっているケースが多い。中伊豆の原畑遺 跡や修善寺の出口遺跡では、大規模な集落跡が確認されており、3000年~4000年前のものと推定される中伊豆町にある上白岩遺跡には 大きなストーンサークルを中心とした集落の跡が残っている。段間遺跡は神津島に産する黒曜石の集積地として栄え、ここから全国各地へ打製 石器の原料として黒曜石が運ばれた形跡がある。南伊豆町の洗田遺跡は、西に聳える三倉山をご神体山として拝し、その祭祀場の周囲に大きな 集落が形成されていた。

 太陽信仰が盛んな縄文時代には、黒潮の流れる海に突き出した伊豆は海上交通の要衝に当たり、進んだ文明の場所だったと考えられる。その 名残りがいまだに留められているといえる。

 ところで、白濱神社に見られる冬至-夏至ラインは、冬至の入日方向に真っ直ぐ伸ばしていくと、伊豆急行下田駅にぴったり当たる。下田駅 の方から見れば伊古奈 比咩神社は夏至の朝日が登る方向にあたり、伊豆の守護神の力を導き入れるような場所に設けられていることがわかる。古い街道が、こうした 太陽信仰と聖地のランドマークを意識していることは昔から知られているが、近代に入ってからも、鉄道の敷設に当たってこうしたレイライン を意識する事が多い。伊豆急行が観光客に愛されるのは、こうしたマジカルな仕組みと関係あるのかもしれない。

izu

大室山
  --神様の足跡に安置される地蔵が意味するもの--

oomuro  伊東市の郊 外に聳える大室山は、典型的なスコリア丘だ。毎年春に山焼きが行われ、全体が丈の低い明るい緑の草に覆われた台形の姿は周 囲から浮き上がって見え、伊豆のシンボルとなっている。私のようなウルトラマン世代なら、怪獣ヒドラの背後に聳えていた山というイメージ が強い。

 標高は580m余りが、まわりには遮るものがなにもなく、晴れた日には富士山から伊豆七島まで一望でき、また東京スカイツリーの姿まで 認めることもできる。この山の頂上は冨士山と同じように中心部が陥没した火口跡となっていて、その周囲はお鉢巡りのできる稜線となってい る。その稜線上には江戸時代初期の寛文年間に造られた五体の「五智如来地蔵」と製作年代がはっきりしない「八ヶ岳地蔵」が置かれている。

 五智如来地蔵 の由来には面白いことが書かれている。「寛文の初め(1663年)、相州岩村(神奈川県足柄下郡)の網元、朝倉清兵衛の娘が9歳で身ごもり、その安産を大室山浅間神社に祈 願したところ無事出産したので、『おはたし』と称して、真鶴石で五智如来像を作らせ、船で城ヶ崎の富戸港へ運び、富戸の強力兄弟が一体を 三回に分けて背負って現在地に安置したと伝えられる」。 さらに、この五智如来地蔵は浅間神社のご神体山である富士山を向けられていると も言い伝えられてきた。

 この五智如来像の由来は、素直には受け入れられない不思議なことだらけだ。まず、娘が9歳で身ごもるということが異常だ。仮にそういう ことがあったとしても、当時なら民間療法で堕胎するか、あるいは生まれた子を密かに流してしまうほうが通例だった。また、伊豆は有名な伊 豆石の産地で、大室山周辺でも石を切り出すことはできたのに、わざわざ真鶴から運ぶという点も違和感がある。「おはたし」という言葉も、 出産を喜ぶ言葉としてはどこか奇妙な印象を受ける。

 さらに、地蔵が富士山を仰いでいるという言い伝えも、実際に方位を確かめてみると富士山よりも伊豆修験の聖地の一つである葛城山を向い ていることがわかる。そもそも、大室山浅間神社に祀られているのは富士山の神様である木之花咲耶姫ではなくその姉の磐長姫で、大室山山頂 から富士山を拝すると磐長姫が嫉妬して、怪我をしたり不漁になるという伝承に矛盾している。日本神話では、地上を治めるために天界から派 遣された瓊瓊杵尊に、大山祇神が木之花咲耶姫と磐長姫という二人の娘を嫁がせようとしたが、瓊瓊杵尊は醜い磐長姫を送り返してしまい、こ のことが、不老不死をもたらすはずだった磐長姫を拒んだことで瓊瓊杵尊とその子孫に寿命をもたらすことになってしまうとされる。

 大室山の浅間神社は、承応三年(1654)に時の松平伊豆守によって建立された。浅間神社は富士山をご神体とするから、普通は富士山の 化身である木花咲耶姫が祀られる、その姉の磐長姫が祀られたということは、富士山を意識したのではなく、磐長姫の不死性を大室山に象徴し たものととれる(磐長姫の名の由来は、磐=岩は硬く盤石で永遠であると言う意味)。

 年代に注意してみると、五智如来像の創建は大室山浅間神社の創建から9年後で、ちょうど娘が身ごもった歳に符合する。これは、大室山 浅間神社の創建時に何かを願掛けし、それが9年後に「はたされた」ことを暗示しているのではないだろうか。

 五智如来像をここに安置した朝倉清兵衛は由来書きでは「網元」とされているが、他の資料を当たってみると、小田原にある長興山紹太寺の 供養塔にその名が見られ、網元ではなく真鶴石を扱う石材の業者であったことがわかる。ということは、自らが扱う石材をわざわざここまで運 んできて安置したことになる。

 五智如来は大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の五体の仏を指し、これは密教の金剛界曼荼羅を構成する。金剛界は大日如来の知恵の世界 で、普遍堅固な宇宙を意味する。磐長姫(いわながひめ)を祀り永遠性を象徴する大室山に金剛界曼荼羅を重ね、9年目にして果たした何かを さらに堅固なものにしようというさらなる願掛けともとれる。

 五智如来像が向いているのは、伊豆修験の聖地の一つである葛城山だが、ここは伊豆に遠流された修験道の開祖役小角が開いたとされる。 そう考えれば、修験道的な意味がここに秘められていることは間違いない。 五智如来地蔵の謎は複雑で、簡単に解き明かすことはできない が、こうした謎に取り組んでいくことで、秘められていた歴史が少しずつ露わになり、伊豆という土地に対する理解がさらに深まっていく。一 つの何気ない由来書きに矛盾を見つけ、その矛盾を解くために調査し、推論を繰り返していくこと、こういったアプローチがレイラインハン ティングのもっとも面白いところといえる。

 八ヶ岳地蔵のほうは、昭和59年に地元の有志が寄進した白御影石の八体の地蔵の後ろに、風化して顔も判別できなくなった古い地蔵が前後 に四体ずつ二列に並んでいる。

 傍らに掲げられた説明文には、「海上安全・海難防除・大漁祈願のため漁師の人達によって建てられた。ここに立って海上を眺めると伊豆半 島から房総半島を一望におさめることができる。近代装備を持たない昔の漁師は八丁櫓で威勢よくこの海へ乗り出し、大室山を目じるしにして 最良の漁場を定めた」とある。

 この説明は、ただ無難な解釈が書かれているだけで、わざわざ八体もの地蔵をここまで運び上げて安置するほどの手間をかけた意味が納得で きない。伊豆では江戸時代の半ば頃から大規模なサンマ漁やイルカ漁なども行われ、さらには記紀の時代に大きな板綴り船(巨木をくり貫いて 作った大きな丸木舟の舷側に板の衝立を設けて、喫水を深くして外洋にまで出られるようにしたもの)を伊豆に産する楠で作り朝廷に献上した といった記述も残り、かなり高度な航海術を持っていたことが知られている。

 この八ヶ岳地蔵が向いている方向を見ると、視線の先に、きれいな円錐形の島影が特徴的な利島が突き当たる。さらにGPSで方位角を測る と156°を示すが、これをデジタルマップにプロットしてみると、利島の北部をかすめて三宅島に突き当たる。これは八ヶ岳地蔵が三宅島に 発する三嶋信仰に深い関わりがあることを示唆している。伊豆半島の東海岸に点在する三島神社の多くが、故地である三宅島を向いているが、 この八ヶ岳地蔵も同じ意図を持っていると考えられる。この大室山山頂からは晴れれば三宅島を目視することも可能で、ここから故地を視野に 入れた祭祀が行われていたのかもしれない。

 風化してしまった元の八ヶ岳地蔵が作られた年代は不明だが、その風化の状態を見ると、稜線の反対側にある五智如来地蔵よりもさらに ずっと古いものだと推測できる。江戸をはるかにさかのぼり、鎌倉や平安まで行き着くかもしれない。だとすれば、三宅島からこの大室山の山 麓に渡ってきた初期の渡来人たち安置した可能性も考えられる。

jizou


一碧湖
  --赤牛伝説と弁財天--

ippeki  「伊豆の 瞳」と呼ばれる静かな湖水を湛えるこの湖もかつての単成火山噴火の跡で、地質学的にはマールと呼ばれる。大室山、一碧湖、小 室山と接近して火山噴火跡があり、かつては地下のマグマの活動が盛んだったことを地形が伝えている。

 一碧湖には周辺の里に害を成す赤牛が棲み、これを日広和尚が経を唱えて収めたという伝説がある。『伊東の民話と伝説』(宮内卯守著 サ ガミヤ刊 1975年)では、以下のように紹介されている。

「昔、一碧湖は吉田の溜池あるいは大池と呼ばれ、村人たちは交通路として船で行き来していた。一方、近隣の岡村の小川沢にも池があり、 ここには神通力をもった赤牛が住んでいた。この池が年々浅くなり住みにくくなったので、寛永年間に(1624~1644)、赤牛は新しい 住みかを求めて吉田の大池にやってきた。
 赤牛はそのまま大池に住みつき、村人たちが大池を船で通ると、これをひっくり返し、さらに池に落ちた村人を食い殺すようになった。
 地元にあった光栄寺の日広上人は赤牛の魔力を封じ込めるため、十二島のうちの一つである小島に渡り、七日七晩お経をあげ、赤牛の魔力封 じを行い、ついに成功した。日広上人は二度と赤牛の魔力が現われないようにと、この小島に御堂を建て、自ら書き写した経文数巻を納め供養 した。そこでこの小島をお経島と呼ぶようになった」

 こうした赤牛にまつわる伝説は、全国各地に見られる。 長野県の白馬村にある青木湖はマリンスポーツの盛んな湖だが、ここも湖の主は赤 牛で、上流にあったせいどうの池から移り住んだと伝えられている。さらに白馬村の北に位置する小谷村でも、山王の池の主が赤牛であったと いう伝承がある。他に、長野県の八坂村の大池、山梨県韮崎市の椹池、福島県桑折町の半田沼などにも赤牛伝説が伝わっている。

 赤牛伝説を持つ場所に共通するのは、山間の湖や沼であること、赤牛が他の場所から移ってきたとされること、そしていずれの場所でも水害 や山崩れなどの災害が起こりやすいということだ。こうした伝承は、自然災害を赤牛や龍などの「魔物」に置き換えて危険性を伝えることを目 的としている。赤牛は、池の反乱が土石流となって集落を襲う様子を赤牛に例えたものだろう。

 一碧湖の赤牛伝説で興味深いのは、日蓮宗系の寺である光栄寺の住職日広上人が赤牛を調伏(法力を用いて退治したり恭順させること)した という点だ。大地に潜んで地震や山崩れなどを起こす魔物を祈祷によって抑えこみ、経を地面に埋めて重しにして調伏するという魔術的な仏法 は、主に修験道や密教系の僧侶が用いていたものだが、日蓮もこうした法力に長けていたと伝えられている。日蓮宗にはそうした伝統が伝わ り、法華経に登場する天部の神である弁財天や帝釈天、摩利支天、さらに八大龍王などに誓願して土地鎮めを行った。日広上人は、そうした日 蓮の伝統に基いて一碧湖の赤牛を調伏したのだろう。この調伏が功を奏したのか、一碧湖には大きな災害の記録が残っていない。

 日広上人は、一碧湖の赤牛を調伏するにあたって、江ノ島から弁財天を勧請し、湖畔に小さな祠を置き、八大龍王も共祀した。今では一碧湖 神社という社が湖畔に置かれているが、そのすぐ南にある石室が弁財天と八大竜王を祀る江島神社で、日広上人が経を埋めたとされるお経島を 東に仰いでいる。そのお経島には、静かな湖面に美しい影を落とす朱の鳥居がやはり東を向いて建てられている。

 一般的に神社や寺、祠などは南を向いて建てられている。それは、天における不動の存在である北極星を背にして、これを参拝者が拝する形 にするためだ。東向きの場合は、春分と秋分の太陽を迎え入れる構造になっている。これは、一年の節目である太陽の光を導き入れることで、 常に太陽の力に守られるという思想が込められている。また東は浄瑠璃浄土、西は西方浄土があるとされ、彼岸には浄土つまりあの世とこの世 が結ばれると考えられた。

 日広上人は、お経島に魔物調伏の力を持つ経を埋めることで魔物の力を封じ、さらに春分と秋分の太陽の光を導き入れることで、彼岸のマ ジカルな力をも借りて法力を持続させようと考えたのだろう。

 一碧湖に江ノ島の弁財天を勧請したことには、もう一つの意味が考えられる。それは、蓮着寺との関連だ。日蓮は、1260年(文応元年) に『立正安国論』を著し、これを鎌倉幕府の前執権北条時頼に建白する。ところが、そこに記されていたのは鎌倉幕府の失政を糾弾するもの で、これが幕府の怒りを買って、日蓮は翌年に伊豆に配流とされる。

 幕府の役人は日蓮を今の伊藤沖まで連れてくると、沖合で日蓮を海に突き落とした。日蓮は必死に海岸まで泳ぎ、なんとか漂着する。その 漂着地に置かれたのが蓮着寺だ。この伊豆流罪を日蓮宗では伊豆法難と呼ぶ。その後、日蓮は赦免され鎌倉に戻るが、再び幕府を批判した廉で 捕えられ、今度は斬首を申しつけられる。

 そして、江ノ島の対岸にあった龍ノ口処刑場で斬首されることになった。今まさに日蓮の首が落とされようとしたそのとき、江ノ島のほう から光の玉が飛んできて刑吏たちを威嚇した。これに驚いた刑吏たちはその場から逃げ、日蓮は命拾いした。これは龍ノ口法難と呼ばれるが、 その後、龍ノ口には龍口寺が建立され、蓮着寺同様に日蓮宗の重要な聖地の一つに発展する。

 龍ノ口法難では江ノ島から飛んできた光の玉に日蓮は命を救われるが、日広上人はこの故事にちなみ、鎌倉の龍口寺と江ノ島との関係を一碧 湖にも援用して、蓮着寺と一碧湖を関連付けて、宗祖日蓮の力が東方浄瑠璃浄土から蓮着寺に注ぎ、さらに一碧湖まで射しこむことを意識した のだろう。

ippeki

      <<<-pre       next->>>