伊豆の聖地

【来宮信仰の聖地】

kinomiya

 1994年、白濱神社の北に浮かぶ竜宮島と呼ばれる小島に、一体の木彫りの観音像が流れ着いた。島にほど近い板戸浜で民宿を営むお婆 さんがこの観音像をみつけ、島の丘の上に仮安置した。

 何度か嵐が通り過ぎ、それでも観音像は置いたままの姿でそこに立っていた。これはただの像ではないと感じたお婆さんは1998年に小 さな祠を建て、その中にこの像をに安置した。

 伊豆東海岸には来迎神を祀った来宮信仰が多く残る。熱海来宮神社、八幡野来宮神社、河津来宮神社はいずれも岸辺に流れ着いた神像をご 神体として祀ったのが始まりとされている。また、京都本国寺に安置されている日蓮宗の寺宝「立像釈迦像」も、日蓮の伊豆配流の際、地頭か ら寄進されたもので、もとは伊東の漁師の網にかかって引き上げられたものだと伝えられている。

 伊豆半島は、黒潮の流れの中に突き出したような格好になっているため、太古から、この海流に乗って、人や物、ときには神や仏まで漂着 してきた。

 伊豆半島南部は「賀茂郡」だが、この名に残る賀茂氏のように、山城の国と呼ばれた京都付近から紀伊半島を縦断し、さらに黒潮に乗って 大挙して伊豆半島に渡ってきた渡来民もたくさんいた。

 縄文時代から伊豆諸島の住民たちとの交流も盛んで、神津島に産する黒曜石を陸揚げし全国に流通させる中継地の役割も担っていた。

 伊豆半島の沿岸部は背後に山が迫り、他から隔絶された集落が点在するように見られるが、前面は世界に繋がる広大な海が開け、海を通じた外界との交流が盛んだった。半島と いうと一般的には他所との交流の少ない閉鎖的な印象がありるが、伊豆の人はまったく逆に開放的で、新 たな人や物を躊躇なく受け入れる。そんな気質も黒潮が育んだものといえるだろう。

 そして黒潮が運んできた様々な記憶は、「来宮信仰」という形でしっかりと伊豆に根を下ろしている。伊豆半島東沿岸から相模湾の一部沿岸にかけては、来宮神社が点在する。 伊豆にしかない来宮信仰は、黒潮と密接に関わる伊豆の歴史が凝縮されている。そして、この信仰を遡っていくと、黒潮によって繋がる広い世 界への展望が開けていく。

 来宮神社に共通するのは、黒潮に運ばれて流れ着いた神像や仏像がそのご神体であり、その神様の性質がおしなべて南国的で大らかであるこ と、そして、いずれも境内に巨大なご神木を有して「木宮」とも呼ばれることだ。樹齢1000年を越える巨木は太古の森の名残りを留めるも のでもあり、伊豆に息づく精霊の気配を濃厚に発している。さらに「来宮」は「紀宮」とも記され、紀伊半島との深い繋がりを連想させる。 また、「貴宮」の表記が用いられることもあり、これは都の尊い者の記憶を密かに留めている。



熱海来宮神社
  --谷を覆う宇宙樹の聖堂--
  shirahama

 JR伊東線の来宮駅からほど近い熱海の市街地の一角に来宮神社がある。ここには、樹齢2000年と伝えられる大楠がご神体とし て祀られている。古代の神道信仰では、今のような社殿は持たず、ご神体山や岩を直に拝む形式の自然信仰の色彩が強いものだったが(奈良県の三輪山信仰など、今でもプリミ ティヴな信仰形態を残すところもある)、この熱海来宮神社も近世までは現在のような社殿はなく、大楠の前に小さな祠が置かれているだけ で、素朴に巨木と向い合ってこれを拝む形 だったと伝えられる。江戸時代末期までは「木宮明神」と呼ばれ、地元の地主神として素朴な信仰を伝えていた。

 巨樹巨木は、世界中の創世神話によく登場する。それらは、世界を支える世界樹であり、宇宙と繋がる宇宙樹であると考えられた。

 スカンジナビアの創世神話『エッダ』には、トネリコの巨木「ユッグドラシル」が登場する。ユッグドラシルは枝が世界全体を覆うほど巨 大で、その根は地下世界「アジール」や氷の巨人が住む「霜のツクセル」、さらにその下の死者の世界にまで届いているとされていた。ギリ シア神話では、トネリコの巨木はポセイドンに捧げられ、オークの巨木がゼウスを象徴していた。エジプトでは巨大なイチジクの木が世界 を支えていると考えられ、北アジアでは樅の木が、シベリアでは樺の木が世界を支えていると考えられていた。世界中のそれぞれの土地で、その地にしっかりと根づいた巨木は、 はかり知れない威厳を湛え、その姿に超自然的な力を感じ取った古代の人々は、土地の神=ゲニウス・ロキ (地霊)の現れだと思った。

 現代でも、巨樹巨木は古来からの世界樹や宇宙樹というモチーフでしばしば登場する。映画「アバター」では、惑星パンドラに住むナヴィ と呼ばれる人型生物たちが、「ホームツリー」と呼ばれる巨木を住処とし、この木をこの上なく神聖なものとして崇めていた。「となりの トトロ」では、サツキとメイが住む家を見守るように聳える巨木がトトロの住処だった。いずれも、巨木は生命や土地の象徴として描き出され ていた。

 熱海来宮の大楠は、伊豆随一のパワースポットとしてメディアで紹介され、参拝する若い女性の姿が目につく。東海道線の来宮駅から歩 いてくると、まず本殿に出迎えられ、さらにその横手に回り込むとふいに大楠が立ちはだかり、だれもが一瞬たじろぐように足を止める。 二股に別れた幹の片方は残念ながら枯れて伐採されているが、それでも幹周りは24mあまりあり、相対する者を絶句させるだけの迫力を 持っている。

 根本に立って見上げれば樹冠が空を覆い尽くし、巨大な聖堂の中に佇んでいるような重厚な空気に包み込まれる。この自然と 溶け合ったような感覚が、古代から現在まで巨木を崇めるコアになっているのだろう。

 来宮神社の由緒書きには、この神社が「漂泊神(来迎神)が来た」ことを意味する来宮の性格もはっきり持っていることも伝えている。 「今から凡そ千三百年前和銅三年六月十五日に熱海の海へ漁夫が網をおろしていたところ、お木像らしい物が之に入ったので不思議に思ってい たところ、ふとそこに童子が現れ「我は五十猛命である。」と言った。さらに、「此の地に波の音の聞こへない七体の楠の洞があるからそこへ 私をまつれ、しからば村人は勿論当地へ入り来る者も守護するから」と言うと同時に童子は地に伏してしまったので、村人一同で探し当てた所 が、今の此の地であり、毎年六月十五日(新暦の七月十五日)になると海岸へ出て当時を偲ぶお祭りを行う。(七月の例大祭。こがし祭)」

 黒潮に乗った神像が漂着し、それが神として祀られるというのは、伊豆を中心に点在する来宮神社に共通するモチーフだ。また、七体の楠 があると記されている点は河津の来宮神社と共通する。

 五十猛命は日本神話では須佐之男命の息子であり、様々な樹木の種を持って朝鮮半島に降臨し、さらに日本に渡って、日本を緑あふれる国 にしたと記されている。そんな由来から林業の神とされ、とくに林業の盛んだった紀州でその信仰が篤い。その五十猛命が海からやってきた渡 来神であるということは、紀州との繋がりを物語る。

 さらに、「七本の楠」が登場するが、神道や密教で七つのランドマークが示唆される場合、妙見北辰信仰の構図を考慮して みる必要がある。天の中で不動である妙見(北極星)とそれを守護する北辰(北斗七星)を地に写しとるようにランドマークを配置し、聖 地に結界を張るもので、二つの来宮に現れる七という数字が、妙見北辰信仰由来であれば、七つの大楠は北斗七星の形に配され、北極星の位置 にある重要なアイテムを守護する構造になっていたと考えられる。しかし、残念ながら、現存する大楠と数本以外の痕跡はなく、史実にも位置 をはっきりと特定できる記述はない。これは、今後、シミュレーションしながら検証してみたい。

izu



音無神社・葛見神社
  --頼朝と八重姫のロマンスが伝わる社に残る巨木・来迎神が宿る大楠--

oomuro

 伊東市の市街地の一角にある音無神社は、若き源頼朝と伊東の領主の娘八重姫の恋物語が有名な神社だ。小川の辺りにあ るこの場所で二人を逢瀬を重ね、二人が佇む間、傍らの小川が瀬音を止めたという伝説が名の由来となったと伝えられている。

 11月の例祭「尻つみ祭り」は、真っ暗な社殿の中で神事を行い、お神酒を回す際 に隣の人の尻を摘んで合図する不思議な祭りだ。古くは歌垣などが行われ、子孫繁栄を願っていたのかもしれない。その名残が不思議な祭りの風習となって残ったのだろう。

 社殿の軒には、底の抜けた柄杓がびっしりと並べられている。これは安産の神でもある祭神豊玉姫命に、安産を願うために奉納されたもの だ。穴の空いた柄杓で水を汲むと、その水が底からこぼれ落ちるように、安産で母子ともに健康であるようにという思いが篭っている。また、 裏の意味を勘ぐれば、水子供養という意味もあったのかもしれない。

 境内には楠と同じ暖地性の木であるタブの木とシイの巨木があり、土地の勢いを物語るように枝葉を大きく広げ、夏の間は伊東市民の憩い の場になっている。

 音無神社のほど近く、溶岩台地が背後に迫る谷筋に葛見神社がある。祭神の葛見神が海からやってきてこの 地を拓いたという来宮信仰に共通する由緒を伝えている。社殿の背後に聳える大楠は、樹齢1000年と伝えられ、幹周り15m、樹高30mという堂々としたもので、熱海来宮 神社の大楠と同 じく国の天然記念物に指定されている。

 境内一帯は縄文時代の祭祀遺跡でもあり、風水でいえば背後に龍脈を背負う龍穴のような地形となっている。大地から湧き出す力が強いポ イントであり、長く聖地として拝されてきたことがわかる。




八幡宮来宮神社
  --白濱神社と地底世界で通じる太古からの聖地--

hachimanguu

 伊豆急伊豆高原駅の周辺は戦後にリゾート別荘地としての開発が進み、エキゾチックで華やかなムードに溢れているが、南にしばらく 歩くと、八幡野という昔からの地名がぴったりの長閑な日本的風景に変わっていく。そんな八幡野の素朴な集落のはずれに、八幡宮来宮神 社が佇んでいる。

 国の天然記念物に指定されている叢林に囲まれた社殿は、その植生が南方の照葉樹林に近いせいか、どことなく奄美や沖縄の御嶽のような雰 囲気で、参道の先に見える海の波音も届かず静まりかえっている。

 ここでは、地元の高校で長く教鞭を取られ、退職後は地元のコミュニティセンターの事務局長を勤める傍ら郷土史を研究されている江黒俊男 さんが案内してくれた。

 江黒さんによれば、社伝では誉田別命(応神天皇)を祀る八幡宮と伊波久良和気命(いわくらわけのみこと)を 祀る来宮神社が、8世紀末の延暦年間に合祀されたものと伝えられているものの、実際は、ここには小祠しかなく、明治の初めの神社合祀令に よって周辺の小さな神社をまとめてここに置いたものだろうということ。祭神については延喜式の神名帳の中から適当なものを探し、この周辺 が昔から八幡野と呼ばれていたことに因んで、八幡宮の祭神である誉田別命を持ちだしたと推定される。

 明治政府は、国家統治の原理として国家神道を採用する。それまでは土着神や産土神などを各集落で祀り、また神道は仏教と習合して、寺 と神社は現在のように画然と分けられたものではなかった。国家神道を国内の隅々まで行き渡らせることを目的として神仏分離が図 られ、また土着の神や産土神は統合されて、一村一社として合祀、統合された神社は平安時代に定められた延喜式神名帳の中の神を主祭神とす ることとされる。

 このとき、寺が廃仏毀釈によって徹底的に破壊されたのは有名だが、国家神道の系列から外れる小社も寺と同じ憂き目に 遭い、この八幡宮来宮神社のように便宜的に祭神が決められたりして元の由来が不透明になってしまったケースも挙げればきりがない。

 史実があまり信用出来ないとなると、いちばん頼りになるのは方位だ。

 この八幡宮来宮神社は参道は東を向き、鳥居を潜って中に入る と、さらに森の奥にある本殿へ向けての参道は北西方向へと向きを変える。本殿を背にしてこの参道が向く方位を測ると、117°を示す。伊豆中部のこのあたりの緯度では、冬 至の日の出の方位が118°なのでこれにほぼ合致する。

 この事実を確認して、案内の江黒さんに質問した。

「この社殿と参道は、冬至の日の出の方向なのですが、もしかしたら、もとは縄文遺跡ではありませんでしたか?」

 そんな私の質問に、江黒さんは、驚いた顔で答えた。

「遺跡という形では発掘されていませんが、社殿の周囲からは土器や石器の欠片や黒曜石の鏃なんかがよく出てきます。この下の畑からもよく 出てくるんですよ。でも、どうしてここが縄文時代と関係があるのがわかるんです?」

 夏至や冬至を意識した聖地は、太古の太陽信仰に結びついているケースが多く、日本では縄文時代の祭祀場にこれが顕著なことを説明するとと、江黒さんは何度も頷いて納得さ れた。

 さらに磐座のようなものはないかと質問すると、彼は本殿の裏へと案内してくれた。そこには崖に穿たれた洞窟の入口があり、注連縄が掛 けられている。この洞窟は神社との関連性は不明ながら、昔からこの土地では、この洞窟は下田の白濱神社に繋がっている と伝えられてきたのだとのこと。

 白濱神社は、伊豆半島最古の神社とも伝えられ伊豆の創世の要となる社だ。そして白濱神社には典型的な 縄文時代の祭祀場跡が存在する。八幡宮来宮神社も縄文時代の祭祀場だったとすれば、両社の結びつきはかなり密接だった可能性が高くなる。

 八幡宮来宮神社から南東へ1kmあまり下った海岸に「堂の穴」と呼ばれる海蝕洞窟がある。来宮は元々ここに置かれていたと伝えられ ている。

 太古、海の彼方から瓶に乗ってやってきた神がここに漂着し、ここに祀られた。この神様は無類の酒好きで、沖を船が通る度 にこれを呼び止め、船人に神酒の奉納を強要したため、困った人々が山の中にある「元屋敷」と呼ばれる場所に祀り直した。しかし、ここ からも海が見えてしまい、相変わらず通りかかる船に神酒をせがんだため、さらに森の奥の現在地に遷祀したとされる。なかなか人間味のあ るユーモラスな神様だ。この逸話は、次に紹介する河津来宮神社の由来にも繋がっていく。

ippeki


八百比丘尼像 ・善應院
  --不老不死伝説と「稲取」の地名の深い関係--

hachimanguu

 若狭の小浜に伝わる伝説に、「八百比丘尼」がある。若狭の遠敷(おにゅう)という山里に生まれ育った少女が いた。ある日、こ の少女の父親が仙人の宴席に招かれ、そこで出された人魚の肉を持ち帰った。少女は人魚の肉と知らずにこれを食べて、不老不死になって しまう。

 親兄弟や知り合いたちが死に絶えても自分一人は老いることなく天涯孤独となった彼女は、尼となって全国を遍歴する。八百年の後、故郷 の若狭に戻った彼女は、そこでようやく命を終えることができたという話だ。

 稲取にも、若狭から流れ流れて八百比丘尼が辿り着いたという伝説があり、古くから港の傍らに置かれた石像が八百比丘尼の像であると言い伝えられてきた。

 今では風化が激しく、各部は欠け落ちて顔もはっきりとはわからないが、立膝をして祈っているようなフォルムであることはわかる。これは、朝鮮半島の仏像によく見られる フォルムで、この像の由来も朝鮮半島にあるのではないかと思わせる。

 若狭の八百比丘尼の伝説は、大陸から朝鮮半島を経て日本にわたってきた渡来民が伝えていた不老不死にまつわる伝説が元になっていると も考えられている。その渡来民たちは、若狭から現在の京都、奈良を経て、紀伊半島の南端まで達し、そこから黒潮に乗って伊豆まで達したと いう説もあり、八百比丘尼の伝説が若狭か ら遥かに隔たった伊豆に伝わっているのは、黒潮に乗ってやってきたその渡来民が伝えたものとも考えられる。

  稲取の港を見下ろす小高い丘の上には、伊豆八十八ヶ所霊場の三十二番札所「善應院」がある。ここは、嘉吉元年(1441)に熊野水軍の末裔である鈴木孫七郎繁時によっ て創建された。この鈴木家の家紋が稲と八咫烏であったことから、この地の名を「稲鳥」とし、後に 「稲取」になったとされる。この逸話からも紀伊と伊豆の深い結び付きが伺える。

 八咫烏はサッカー日本代表のシンボル マークとして知られているが、これは元々、神武天皇東征の際に、紀伊半島に上陸した神武天皇一行を道案内したと伝えられる三本足の烏 で、熊野本宮大社の祭神ともなっている。八咫烏を賀茂県主として氏神に祀っていたのが賀茂氏であり、彼らは大陸からの渡来民である秦氏の一族で、主に祭祀を取り仕切ってい た。賀茂氏の本拠地の一つである紀伊半島と伊豆は黒潮で結ばれ、伊豆の賀茂氏へと繋がってい る。

 伊豆半島の東海岸には、稲取の八百比丘尼像と同じような石像が各地に残されている。それは「賽の神」と呼ばれて、集落に疫病や魔が進 入するのを防いでいるとされている。これは、八百比丘尼が象徴する「不老不死性」が、時を経るうちに「魔除け」と解釈されるようになり、 それが今に続いているのかもしれない。




河津来宮神社(杉鉾別命神社)
  --色濃く残る太陽信仰と隠された神--

hachimanguu

 河津来宮神社も熱海来宮神社、八幡宮来宮神社と同様に来迎神をご神体とする神社であり、また巨木信仰も併せ持っている。伊豆半島の 東海岸から相模湾沿岸にかけては、来宮神社の他に、木宮神社、貴宮神社という同じ「きのみや」と呼ばれる神社が多く点在している。

 来迎神の由来は、黒潮によって繋がる紀伊半島の信仰がもたらされたものだが、その中には、熊野から補陀落浄土を目指して渡海した修行者が黒潮に乗って伊豆半島まで流れつ き、地元民によって神に祀り上げられたといったケースも考えられる。八幡宮来宮の来迎神は、瓶に乗って漂着したと伝えられているが、小舟 に密閉された小屋を掛けられた補陀落渡海船は、大きな瓶か壷として例えられたのかも しれない。

 紀伊半島は濃密な自然に覆われ、熊野の本山とされる玉置山などは、今でも巨木信仰を色濃く残しているが、同じような自然環境を持つ伊 豆半島で巨木信仰が顕著に見られるのも、熊野信仰の影響とも考えられる。

 河津来宮神社は、境内の国指定天然記念物である大楠が有名だ。本殿の横にある大楠の他に、本殿手前と参道の入口にも大きな楠がある。入口の大楠の幹には、「天然記念物の 大楠は、この樹ではありません。境内の奥にあります」との札が掛けられ、参道を進んで行くと、右 手にさらに大きな楠があり、「これか」と思って近づくと、この樹の幹にも先ほどと同じ札が掲げられている。二度ももったいぶられ、「こ れで大したことがなかったら許さんぞ」と思いつつ、本殿の裏手に回ると、そこにある大楠にはただただ圧倒されて、言葉を失ってしまう。

 手前の 二本の樹も立派なものだが、「こんなもので驚くなよ」と執拗に札を掲げた人に、思わず共感してしまう。

 樹齢は1000年とも2000年ともいわれ、幹周りが15メートルを越えて、深く入り組んだその皺が燃え上がる炎のようにも見えるこの 巨木は、文句なしに河津の「主」と言っていい。近年、河津来宮神社は熱海来宮神社と同様に「パワースポット」として、人気を集めてい るが、熱海の大楠が生き物としてのピークを過ぎて、異界との繋がりをより強く感じさせる妖しい雰囲気をたたえているのに対し、河津の大 楠はこれからまだピークを迎えようとする若々しさを備え、その力を分け与えてくれるように感じさせる。幹には張りがあり、樹冠の隅々に まで生気が行き渡っていて、見ているだけで力強さと清々しさを覚える。

 河津来宮神社の正式名は「杉鉾別命(すぎほこわけのみこと)神社」。祭神である杉鉾別命に因んだ名だが、この神は延喜式にその名は登場するものの詳細は分かっていない。 当社の川津龍重宮司によれば、明治初期の神社合祀の命により、近在集落の小祠を集めて合祀した際に、延喜式神名帳の中から適当に選んだも のとのこと。ここは元々神仏習合の神宮寺であったものの、寺を廃し神社として一本化されたという。

 神宮寺であった時分には、大楠の下に祠が祀ってあり、その中に、小さな神像が納められていたという。その神像は、神社合祀で大きな本殿が建てられるとその内奥に納めら れ、以後、秘像とされた。代々、その神像を見ると祟があると伝えられ、川津宮司も神像を目にしたこ ともなければ、納められている厨子を開いたこともないという。

 この神像は、はるか昔に来宮神社の南東1kmほどの木の崎(現在は鬼ヶ 崎)と呼ばれる海岸に流れ着き、最初はその場所に祀られ、後に今の場所に移されたという。神像自体は秘像だが、伝説ではこれに宿った神はしばしば姿を現して、沖を通りかか る船に酒をねだったという。このモチーフは八幡宮来宮神社の祭神の逸話と同じだ。八幡宮来宮神社では海が見えるとうるさく船に酒をねだる ので、海の見えない谷奥に移したとされるが、河津来宮神社の祭神は、本殿 に神像が安置されるときに海の方向ではなく天城山のほうを向くように置かれたという。

 河津来宮神社の氏子には、「酉精進・酒精進」という面白い風習が伝わっている。これは、毎年12月下旬の冬至を中心にした一週間、 卵・鶏肉・酒を口にしないというもので、この間は給食のメニューからも鶏肉や卵は外されるほど徹底している。

 昔々、来宮の神は野原で酒を飲んでいて、そのまま眠ってしまった。気がつくと山火事の火に囲まれ、身動きがとれなくなっていた。そのまま焼け死んでしまうと覚悟したその とき、空を真っ黒に覆うほどの鳥が飛んできた。鳥たちは、来宮の神の頭上で羽についた水 を振り落とした。羽の水が無くなると、鳥の群れは近くの河津川まで飛んで行って水に入り、羽にたっぷりと水を含ませて戻ってきて、また羽から水を振り落と す。それを繰り返すうちに、火は収まり、神は助かった。「酉精進・酒精進」は、この伝説に因んだ風習だ。

 沖を通る船に酒をねだった八幡宮来宮の神といい、河津来宮の酒に酔いつぶれた神といい、なんと人間臭い神様か。キャラクターがともに似ているのは、神に見立てられた漂着 民が同じような民族か、難破した水軍の乗組員だったかのような印象を受ける。それはともかく、河津の「酉精進・酒精進」は、この風習が行 われる時期に興味を惹かれる。

 「酉精進・酒精進」冬至を中心とした期間に行われるのは、太陽信仰との関連性が考えられる。太陽信仰に おいて冬至に行われる祭りは太陽の再生を願うもので、祭りの前には精進潔斎し、冬至を過ぎたら太陽の再生を祝って酒も肉も解禁になる。「酉精進・酒精進」の儀式はこの冬至 祭りに符合する。

 太陽信仰はもっとも古い自然信仰の形で、世界中の太古の遺跡にその痕跡が見られる。ヨーロッパに多いストーンサークルやドルメン、メンヒルといった巨石遺構は一年の太陽 の動きを追いかけ、春分、夏至、秋分、冬至という節目の日の太陽を正確に観測すると同時に、その場で、節目の日の祭りが行われる場所でも あった。

 日本でも、縄文時代の遺跡には太陽信仰の祭祀場が多く、さらにその場所に後に神社仏閣が置かれたケースも多く見られます。

 河津来宮神社は姫宮遺跡という縄文遺跡の中にあり、かつての祭祀場であった可能性が高い。河津来宮神社の1kmほど東の高台に は見高神社があり、西を向いた社殿が河津来宮神社の方向を示している。春分と秋分の日には、太陽は真東から昇り、真西に沈むから、 河津来宮神社と見高神社は一年に二度、太陽の光によって結ばれる配置になっているわけだ。また見高神社の背後には段間遺跡という縄文時 代の遺跡があり、神津島産の黒曜石が大量に出土している。このことは、両社が縄文時代の祭祀遺跡の時代から、太陽信仰のネットワークを形 作っていたことを示している。

 天城山塊に発する河津川が広い入江に達して海に注ぐその河口に開けた河津の町は、町の中心を流れる河津川に並行して街路が引かれ、家屋 は海に向けて建てられている。河津来宮神社も参道は河津川に並行し、社殿はまっすぐ海を向いている。神社は社殿を南に向け、参道も南北方 向に伸びているのが普通だ。それは、妙見北辰信仰に由来し、天の中で不動の妙見(北斗七星)を背負う形で社殿が置かれ、神の不滅性を示す からだ。だから、通常、神社に参拝すると、南から北へと参道を辿り、北極星を背負った神社を拝む形になる。

 地形の 関係で南を向けられない場合もあるが、それを別とすれば、南面していない神社は、太陽信仰を反映して夏至や冬至の太陽の出没方向に向 けるケース、あるいは別な聖地を指し示していると考えられる。河津来宮神社の場合は、一見すると地形に合わせているように見えるが、周囲を見渡すとかなり広い平地にあっ て、南面させるのに不都合はなさそうだ。それでも南面させていないのは、何か意味がある。

 現在の社殿の向きを見ると、ちょうど伊豆急線の河津駅の方向を指している。川津宮司によれば、さらにその先、海のむこうの新島を指しているといい伝えられてい るとのこと。デジタルマップで検証してみると、たしかに新島の方向を指している。そして、新島からさらにそのラインを伸ばしていくと、三 宅島に達するのがわかった。

 三宅島は伊豆諸島開闢の神である三嶋神の発祥地 で、後に三嶋神は妃神や伊豆諸島開闢をともに行った神たちとともに、伊豆半島に渡ってきたとされている。その上陸地が白濱神社で、三嶋神はさらに単独で現在の三嶋大社に遷 座したとされている。

 河津来宮神社が三宅島を指しているということは、三嶋信仰と関係が深いことを暗示している。 また、河津はかつて新島との交易が盛んで、新島から河津に渡って住み着いた人も多かったと伝えられているから、新島を指していることにも意味がある。住民の故地である新島 と三嶋神の故地である三宅島を一直線に結ぶ場所ということが、この場所の聖地性であり、社殿の向きも重要な意味があることがわかる。

 この神社の本殿は外家の中にあって普段は見ることができないが、特別に外家を開けてもらって本殿を拝することができた。そこには、三 嶋大社との関連性を示すものがもう一つあった。

 本殿正面には立派な彫刻が施されている。杯を手にした仙人が龍と向かい合い、龍をいなしながら心地良さ気な表情を浮かべている。盃を 持つ仙人というモチーフは酒解神(さとけのかみ)を表すが、酒解神とは酒造りを人間に教えた大山祇神のことだ。そして大山祇神は三嶋神と 同体だとされている。大山祇神は海と山を統べる神であり、海からやってきたというこの神社の祭神の由来にも、そして大楠をご神木として崇 めることにも符合する。

 この彫刻は、由来がはっきりしている。嘉永年間に伊豆で活躍した堂営建築彫刻師の石田半兵衛が手がけたもので、まったく同じモチーフ の彫刻を伊豆大川の三島 神社にも残されている。つまり、伊豆大川でははっきりと三嶋神に結び付けられているわけだ。

 河津来宮神社の本殿が新島からさらにその先の三嶋神の発祥地である三宅島を向いていること、三嶋神を表す彫刻が本殿正面に彫られていること、この二点だけでなく、さらに この神社と三嶋信仰との結び付きを示す事実がある。一つは、この神社の宮司は三嶋大社の神官が務めてきたことだ。現在の川津宮司も三代前 は三嶋大社の神官で、その後世襲して今の川津宮司に続いている。もう一つ興味深いは、三嶋大社が正確に河津来宮神社を向いていることだ。

 先に記したように、三嶋大社の祭神である三嶋神は、三宅島から白濱神社に渡って鎮座し、さらに三嶋大社に遷座した。その歴史をなぞるように、白濱神社と三嶋大社を結ぶ下 田街道が伊豆半島の内陸部を縦断して伸びている。三嶋大社から見ると下田街道は真っ直ぐ河津へ 向かって南下し、河津から下田へは急に西に折れる。これは河津が地理的な分岐点であることもあるが、河津来宮神社が三嶋大社にとっても重要な意味をもっていると考えられ る。

 河津来宮神社は、周囲の神社や縄文遺跡とも有意な位置関係で結ばれているから、それらを総合的に見れば、古代、この場所が非常に重要な聖域 だったといえる。
kawazu

      <<<-pre       next->>>