伊豆の聖地

【伊豆辺路と伊豆山信仰の聖地】


来宮山東泉院
  --役行者ゆかりの古刹--
  tousenin

 伊豆急片瀬白田駅から間近な丘の中腹にある来宮山東泉院は、伊豆八十八ヶ所霊場の31番札所であり、まさに現代の伊豆遍路のポイン ト。

 ここに安置される本尊の聖観音は役小角の作と伝えられ、伊豆修験と関連が深い。寺号を来宮と称するのは、来迎神を祀る来宮信仰が混交 した神仏習合の場であることを表している。現在は曹が、元々、ここが太古の聖地であり、それが修験道に受け継がれ、さらに仏 教と混交することによって、現在の形になったと考えられる。

 海から心地良い風が吹き上げてくる堂で静かに参禅していると、伊豆辺路を辿った修行者の心境にシンクロしていく。



河津温泉堂
  --伊豆辺路修験拝所--
  

 修験の行者は過酷な環境で修行を行うため、怪我を負ったり、病を患うことも多く、手当てや修養法、生薬なども独自のものを発展させ た。吉野修験では「ダラニスケ」と呼ばれる万能薬が修験者の必需品であり、御嶽山でも「百草丸」と呼ばれる万能薬が現代にまで伝えられて いる。

 また、各地に残る傷を癒やすとのできる温泉の発見譚も修験者によって伝えられたものが多い。弘法大師空海が杖をついた場所から温泉 (泉)が噴出したという伝説などは、まさにそうした例だ。伊豆では、熱海の走湯が役行者の開湯とされ、河津の谷津温泉も奈良時代に行基に よって発見されたと伝えられている。

 行基は東大寺の大仏建立の責任者として知られているが、そもそもは在野の優婆塞で、全国に仏法を普及させるために行脚し、さまざまな 霊験を示したと伝えられている。

 谷津温泉にある温泉堂は、伊豆辺路の途中の拝所でもあり、当然、行基もここを訪れただろう。温泉が行基の発見になるものか、あるいは 行基が訪れてたときにはすでに知られていたのかははっきりしないが、行基というカリスマに結び付けられているということは、この温泉の霊 験が強いものであったということは確かだろう。




三穂ケ崎遺跡
  --空海伝説の残る岩屋と閼伽水--
  miho

 白浜海岸から南に下った三穂ヶ崎の突端には海蝕洞窟があり、その中から5世紀頃のものと推定される匂玉、丸玉、臼玉等多数の石製の玉類が発見されている。これは、一般に 海神や海鳥の祭りに捧げられたものと考えられている。

 江戸期の修験者が伊豆辺路を巡りながら各地の寺社に札を納めて回った記録である『伊豆峯次第』には「 弘法大師、護摩修行所なり、また閼伽水出所あり」と記述され、ここが修験に関係する重要な場所であったことを匂わせる。

 空海19歳、まだ一人の私度僧、修験者として厳しい修行を行っていたのこと。空海は四国室戸岬の海蝕洞窟に篭り、虚空蔵求聞持法を 100万回唱えるという修行をここで満願し、その瞬間、明星の光が口に飛び込み、悟りを開いたとされている。この時、洞窟から見える景 色は空と海だけで、「目に見える自然は空と海だけだが、そこには自然界のすべての知恵がある」と感じ、佐伯真魚(さえきのまお)という名 を捨て、以後、「空海」を自分の名とした。

 空海は、水銀鉱脈を各地に探し、最終的に良質な産地であった高野山を本拠とした。高野山周辺は、もともと丹生都姫神社の領域で、空海は高野山を高野明神から借り受ける契 約を結んだが、具体的な契約年月を記した部分が紙魚に食われてわからなくなったために、永遠に空海が貰い受けることになったと『高野山縁 起』に記される。そうした詭弁を用いて高野山を我が物にしたかったほど、ここでは良質の水銀が採れたのだろう。

 水銀は中国の神仙道や道教では不老不死を得るための重要な原料とされ、水銀を用いて不老不死の妙薬を作る技術を「錬丹術」と呼んだ。 多くの方士や道士が煉丹術を極めようとしたが、それに成功したという実例は伝わっていない。秦の始皇帝秒には水銀のプールがあると言われ ているが、それも取り巻きの方士たちが始皇帝の不老不死を願って作ったものだ。

 また水銀は金を精製するためにも必要なもので、奈良時代の東大寺盧舎那仏建立の際には、大仏の全身を鍍金するために、大量の金と水銀 が集められた。

 水銀は天然には硫化水銀(辰砂)の形で存在する。朱やベンガラともいわれる真っ赤な鉱物で岩に含まれる。密教では聖水を「閼伽水(あ かみず)」と呼ぶが、これはサンスクリット語の「水」を指すと同時に朱の意味も含んでいる。つまり閼伽水は硫化水銀を含んだ赤い岩の間に 湧き出す水で、これに微量の水銀が含まれていて不老不死の力をもたらすと信じられていたのだ。

 修験行者は山に入るときに秘伝の万能薬を持つ。吉野では「陀羅尼助」と呼ばれる薬が伝わり、御嶽山には「百草丸」という薬が伝わって いる。どちらも地元で採れる生薬が主体で、今は水銀は含まれていなかったが、昔は水銀を含有していた。

 この三穂ヶ崎遺跡は海蝕洞窟の中にあり、真っ赤な岩の間から閼伽水が染み出している。ここでは多くの行者が修行し、空海もここで修行 したと伝えられている。空海が伊豆辺路を辿っていたとすれば、この場所は、空海にとって大きなインスピレーションをもたらした場所だった のではないだろうか。




竜宮窟・盥岬・遠国島
  --南伊豆沿岸部に連なる祭祀遺跡--
  miho

 海蝕洞窟の天井が抜けて独特の景観を見せる竜宮窟。抜けた上部の形がハート型に見えることから、恋愛のパワースポットともてはやされているが、ここもやはり修験の拝所 の一つであったと考えられる。地元では昔から自殺の名所として知られていたというが、古代から彼岸と繋がる場所とされてきた「岬」「海蝕 洞窟」という二つの要素が一つになったこの場所は、苦痛も試練もなく、ダイレクトに彼岸に達することのできる場所として人は無意識に感じ るのかもしれない。「パワースポット」と呼ばれるような場所は、過去に悲劇があったような、ふつうに考えればネガティヴな場所が多いが、 それもやはり「彼岸」のイメージを無意識に喚起させるからだろう。

 竜宮窟を見下ろす尾根の上には、小さな祠が置かれている。この祠は、奈良時代の祭祀遺跡が確認されてい る遠国島遺跡にあった祠がもともとここにあった竜神を祀った祠に合祀されたものと伝えられている。遠国島はここからさらに南へ海岸線を辿り、遊歩道も途絶えた先にある島 で、今でも船以外の交通手段がない。ここには、伊豆辺路を辿る修験者が長期間暮らしていたらしく、奈良時代の什器が多数見つかっている。 竜宮窟の上にある祠は正確に遠国島を向き、竜宮窟から遠国島へかけて伊豆辺路の巡礼路であったことを示している。

 下田市田牛から盥岬を経由して逢ヶ浜へと至る盥岬遊歩道は、アップダウンの激しい海岸沿いに、こんもりと茂った照葉樹林の森を抜け、 明るいスダジイの林を突っ切り、さらに断崖の上を行く、まさに修験の修行路を彷彿させる。

 盥岬の北の尾根からは、大きな海蝕洞窟が口を開ける遠国島を間近に見ることができる。盥岬に出ると、荒々しい磯が連続する海岸の先に 白砂が眩しい弓ヶ浜が遠望できる。懸崖にへばりつくように辿ってきた修験者たちは、光り溢れる白砂の砂浜を見て、間違いなく「浄土」を感 じただろう。そして弓ヶ浜に辿り着いた時には、そこまでの苦しい行程もすべて忘れるほどの歓喜を味わったのではないだろうか。

 南伊豆には弓ヶ浜のような大小の美しい浜が点在している。伊豆辺路を辿る修行・巡礼は、ただ過酷なだけではなく、浄土・彼岸をイメー シさせるこうした景色がほどよく散りばめられていて、過酷と歓喜を繰り返すうちに、修行者は段階的に本当の彼岸へと向かっているという意 識を固めていったのだろう。




石室神社
  --役小角開創の由来と不老不死伝説--
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 海底から湧き上がった熱い溶岩が、何か人智を超えた力で一瞬にして凝固させられたような奇岩が続く石廊崎は、いまでも胎動する火山の気配に圧倒されそうになりる。石室神 社は、盛り上がった溶岩が垂れ落ちようとした瞬間に固まった岩棚の下に安置されているが、これは、この溶岩の動きを封じて、火 山が息を吹き返さないように呪(まじな)いを施しているかのようだ。

 この石室神社の社殿の下には、一本の太い帆柱が根太として使われている。これは江戸時代に播磨から江戸へ塩を運んでいた帆船のものだ と伝えられている。

 播磨から江戸へ向かう途中、この船は石廊崎沖で時化に遭い、難破しそうになる。そのとき、船子たちは石廊権現に窮地を脱することができるよう、必死に祈り、「もし、無事 に江戸に着くことが出来ましたら、帰りには帆柱を寄進いたします」と願掛けした。すると、ふいに嵐は止み、船は江戸へと無事に辿り着くこ とができた。

 江戸で新たな荷物を積み、帰路に着いた船は、石廊崎沖に差し掛かると、ふいに風が止まり身動きできなくなってしまう。そのとき、 往路で見た石廊権現の社が船頭の目に入った。船頭は、「権現様、危うく約束を忘れそうになりまして申し訳ありません。帆柱を寄進い たしますのでどうかお許しください」とその社に向かって拝み、船子たちに命じて帆柱を切り倒させた。

 その帆柱を海に投げ込むと、たちまち大波が起こってこの帆柱をさらい、岸辺に運んで岩の間にがっちりと食い込ませた。今に残る石室神社は、この帆柱を根太にして建てられ たと伝えられている。

 石廊権現の由緒は役小角に結び付けられている。「石廊山金剛院縁起」によれば、役小角が伊豆大島へ流されたとき、十一面施無畏の神力 を得てこの地に至り、後に村人の一人が夢の中で 海中より宝殿が浮かび上がって岬に座すのを見て、十一面観音が安置された宝殿が建っていたとされる。さらに、秦の始皇帝5世の孫と云われ 日本に帰化した弓月君(ゆつきのきみ)の子孫で秦氏と名乗った一族が、弓月君を物忌奈之命(ものいみなのみこと)としてここに祀ったとい う説もある。役小角は秦氏一族と伝えられ、また、伊豆半島南部の地域は畿内から紀伊半島の熊野を経由して黒潮に乗って渡ってきた秦氏一族 の賀茂氏が開いたことから賀茂郡と呼ばれている。

 修験道の開祖で不老不死の仙人であったとされる役小角、東海の蓬莱島に不老不死の妙薬を求めて旅立った徐福の子孫とも伝えられる秦氏、不老不死というキーワードで繋がる 両者がここでオーバーラップしてくるのはただの偶然ではなく、石室神社のあるこの場所が持つ力(ゲニウス・ロキ)がそれだけ強く、マジカ ルなものに惹かれた人間を昔から集めてきたことを表しているといっていいだろう。

 石室神社の社からさらに岬のほうに進むと、小さな祠があり、その格子戸にたくさんの絵馬やみくじ札が結び付けられ風に踊っている。 この熊野神社は縁結びの神様として人気を集めている。

 熊野神社の由来は、昔話に以下のように伝えられている。「石廊崎近くの長津呂という集落にお静という名主の娘がいた。お静は漁師の幸吉と恋に落ちたが、身分違いと許され ず、幸吉は沖にある神子元島に流されてしまう。幸吉が恋しいお静は毎夜石廊崎で火を焚き、神子元島の幸吉もこれに火で答え、互いを思い続 けていた。 ある晩、神子元島の火が見えないのを心配したお静は、小船を出して神子元島に向かう。しかし、お静の船は高波に煽られて危うく難破しかけてしまう。お静が無我夢中で神に祈 ると、その祈りが通じたのか、波は収まり、神子元島の岸辺に流れ着く。この後、親も二人の仲を許し、 二人は結ばれて末長く幸せに暮らした」。

 お静が火を焚いた場所に安置されたのが熊野権現で、この故事に因んで熊野権現が縁結びの神様とされるようになった。結婚に関して様々 な困難を持つカップルにとって霊験あらたかと、古くから信じられてきたという。

 そもそも伊豆地方における火山の神は、「火=溶岩」と「水=海」を結びつけて、あらたな大地を作り出すことから、縁結びや子孫繁栄の 神として信仰されてきた。同じ火山の神を祀る伊豆山神社では、水を象徴する白い龍と火を象徴する赤 い竜が雌雄一対で土地に眠っているとされ、やはり古くから縁結びと子孫繁栄の神として崇められてきた。

 次の章では伊豆独特の「来宮信仰」の聖地を紹介するが、海から神や人や様々な文物がやって来た伊豆は、新しい文化の玄関口でもあり、 とくに創造的なアーティストや文人墨客を惹きつけてきた。近代では、下田が長い鎖国にあった日本を開国するキーポイントとなる。伊豆とい う土地を俯瞰すると、大地の胎動と海の還流力とがこの場所で大きなうねりを生み出しているのが見えてくる。

 石廊崎から北西へ直線で 1.5kmほど。雄大な草原が開ける一角がある。池の原とよばれるこのあたりは、約40万年前に噴火した南崎火山の溶岩が険しい谷を埋め立てて作り出した。ユウスゲが自生 する ことから「ユウスゲ公園」として整備された遊歩道を巡れば、石廊崎周辺の荒々しい海岸とは対照的になだらかな草原が続く。丘の上の展望台から周囲の岬や島々を見ると、白や 灰色、赤褐色の地層が積み重なっているのが見渡せる。石廊崎から出港する遊覧船に乗って海側から観察すると、池の原の丘が白い岩石からな る基層部 に南崎火山から噴出した灰色の溶岩流や赤茶色のスコリアが乗ってできたものであることが観察できる。

 遠く南方の島嶼がはるばる北上して日本列島にぶつかって伊豆半島となったのが100万年前、それから60万年を経て、半島の突端にあ る火山が噴火し、海に大量の溶岩を注いだ。それから40万年後の現在へと続く大地の歴史を想像しながらこの風景を眺めると、巨大な時空間 の中で自分が生きているということを実感できる。

 風景は、それを作り出す地球の生理を知って眺めれば、秘められた歴史を饒舌に語り始める。2012年には、ユウスゲ公園にほど近いあ いあい岬にジオパークビジターセンターが設けられ、「伊豆ジオパーク」の拠点の一つとされたが、伊豆という土地にやってきたならば、ぜひ ともジオパーク的な観点=大地の歴史を意識して、その風景を眺めてみてほしい。


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