伊豆の聖地

小室山

  --大地の営みを一望し、古の人々の心を追体験する--

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 小室山も大室山同様に美しい円錐形のスコリア丘だ。およそ1万5千年前に噴火し、そのときの溶岩は小室山周辺に荒々しい溶岩地形を生 み出した。

 標高321mの頂上からは、伊豆諸島から天城山塊まで360度の展望が開け、溶岩流が直接海に注いでできた荒々しく入り組んだ景色を観 察することができる。また内陸部側を見渡すと大室山や遠笠山などのスコリア丘、矢筈山や孔ノ山の溶岩ドームなど典型的な火山地形を確認で きる。この小室山からの展望は、遠い南の海から100万年の時をかけてフィリピン海プレートに乗ってやってきた島が、本州に衝突した時か ら始まる大地の物語を語っている。

 東伊豆の火山活動は、4万年ほど前から活発になり、3000年あまり前まで続いた。伊豆半島にはすでに5000年以上前の縄文初期から 人が住んでいた痕跡があるから、リアルタイムで火山活動を目撃した人々も大勢いただろう。現代に生きる私たちも、大島の三原山や三宅島の 噴火を見て、大地の営みのダイナミズムとスケールの巨大さにただ息を飲むばかりだったことを思い出す。同様の光景を間近に目撃した古代の 人々は、そこに荒ぶる神の姿を見たに違いない。

 また、小室山から見渡せる変化に富んだ火山地形の数々は、古の人々にとっては神々の痕跡としてその目に映っただろう。そして、彼らの想 像力は豊かな物語を生み出した。伊豆の創世神話である『三宅記』、一碧湖の『赤牛伝説』などの伊豆に伝わる民話を思い浮かべながら、小室 山からからの景色を望めば、特徴的な地形から様々な物語が浮かび上がってくる。

 小室山の火口には小さな社が安置されている。この小室神社は、元禄16年(1703)の大地震に遭った小田原の藩主大久保隠岐守忠増が 西方鎮守として安置したものだ。小室山は小田原からは南に位置しているが、海沿いに遠望できる火山であることから象徴として選ばれたのだ ろう。

 元禄地震では小田原城下と領内各所が地震被害とともに、火災と津波によって壊滅的な打撃を受けた。小室神社の祭神は火災守護の愛宕大権 現と海の安全を守る金刀比羅神、そして火山の神である火産霊神の三神でり、切実な願いが込められている。

 大久保忠増は小田原藩主を継ぐ前は、幕府にあって寺社奉行や若年寄を勤めた。寺社に関する専門家であった大久保忠増が小室山に白羽の 矢を立てたということは、この山が伊豆から相模の国にかけて、重要な聖地であったことも物語っている。

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ポットホール
  --溶岩と海の出会いが生んだ「珠玉」に出会いに--

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 城ヶ崎海岸の一角に建つルネッサ城ヶ崎から遊歩道を辿って海岸に出ると、正面に伊豆大島の島影が飛び込んでくる。さらに周囲を見渡すと、溶岩流が海に注いで固まったワイ ルドな海岸線がどこまでも続いている。火山台地むき出しの地面は、「磯」というよりもどこか他の天体の上にいるような感気分になる。

 伊豆半島の海岸線は、古代から中世にかけて「伊豆辺路」と呼ばれる修験道の修行場を繋ぐ巡礼路だったが、ここに立つと、荒々しい溶岩と 青い海から構成されるミニマルな景色にこの世ならぬものを感じ、この海岸を辿って巡礼していけば、空海が空と海しか見えない室戸の海で悟 りに達したように、この世を突き抜けた境地に達することができるのではないかと思わせられる。

 現在では、荒々しい溶岩がむき出しの海岸部とそこから少し内陸に入った照葉樹林を貫いて「城ヶ崎自然研究路」が伊豆高原駅近くの八幡野 の海岸と城ヶ崎の間を結んでいる。このトレースを北へと辿り、15分ほど行くと観音浜という入江がある。ここから岩場の波打ち際に行く と、岩に穿たれたポットホールの中に嵌った見事な岩のボールを見つけることができる。

 ポットホールとは、波に打ち付けられて欠けた岩が、さらに打ち寄せる波によって岩棚に擦り付けられることによって岩棚を削った穴のこと で、多くは岩棚を穿ったボールのほうは粉砕されて消失してしまうが、ここでは現在進行形で侵食が進んでいるところで、岩のボールを見るこ とができるのだ。

 この大人が一抱えするほどの大きさのボールを初めて見たとき、私はオーパーツを想像した。オーパーツとは天然のものとも人工のものとも 判然としない造物で、最先端の技術を駆使しても製作することが困難なものを指す。世界中の多くの古代遺跡で理解に苦しむような精密な加工 品が見つかっているが、そのオーパーツの典型として、真球の岩のボールがある。南米のジャングル奥深く、マヤやインカあるいはオルメカと いった謎の古代文明の遺跡の傍らにポツンと完璧な球体の岩のボールが置かれている。そんな光景がナショナルジオグラフィックのような雑誌 に掲載されたりしている。

 このポットホールならぬポットボールを見つけ、艶やかなその表面に触れたとき、あの雑誌で見た謎のオーパーツはこれではないかと思っ た。たぶん、そんな私の見立ては間違ってはいないと思う。古代に存在した超文明などという仮説を持ちださなくても、自然が生み出したこう した造物に出会えば、自然が秘めた力の奥深さに感動を覚えさせられる。古代の人たちは、こうした物を見つけたとき、これを神からの贈り物 として、わざわざ遠く離れたジャングルの奥まで運び、ご神体として崇めたのだろう。

 このポットボールは、伊豆の自然が生み出した奇跡の一つ、まさに伊豆創世の神、三嶋神の力を思わせる。これが作り出される原理を理解し ても……いや、逆にその原理を理解するからこそ、これをもたらした自然の力に畏敬の念を抱かせずにはおおれない。

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城ヶ崎海岸
  --溶岩と海の出合いが生んだダイナミックな景観から火山を学ぶ--

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 蓮着寺から城ヶ崎、富戸と繋ぐ遊歩道は、「城ヶ崎ピクニカルコース」と呼ばれ、変化に富んだ景色が楽しめる。

 約4000年前、大室山の噴火によって、その溶岩が相模湾へと流れ込んで一気に冷やされて出来上がったのが城ヶ崎。このあたり一帯は、 植物が根を張るように溶岩流が海に流れ込んだため、入り組んだ断崖地形となり、柱状列石、柱状節理、波食台、波食窪など、溶岩が一気に冷 え固まった瞬間の荒々しい場面の記憶をそのまま留めている。

 このコース沿いの特徴的な地形には、「つなきり」、「ひら根」、「しんのり」、「びしゃご」、「穴口」、「ならいかけ」…と個性的な名 前がつけられている。それぞれには風景の成り立ちを擬人化した物語が伝えられでいる。それは特異な風景とともに溶岩に秘められた大地の力 が、人にインスピレーションをもたらすためだろう。

 城ヶ崎を象徴する城ヶ崎吊り橋は、門脇埼と半四郎落としの間に掛けられている。半四郎落としは、昔、富戸に住んでいた半四郎という漁師 が、一人で漆喰壁に混ぜて使う海藻のドジ草を取りに行き、籠いっぱいに入れたドジ草の重みでこの断崖から転落したことから呼ばれるように なったと伝えられている。半四郎にはおよしという妻がいて、およしは半四郎が亡くなったこの場所にきては泣き、悲嘆にくれたまま生涯を終 えた。そのおよしが流した涙が、この半四郎落とし周辺に咲き乱れる可憐な磯菊だとこの伝説は伝えている。

 城ヶ崎吊り橋近くには、星野哲郎が作詞し、ロス・プリモスが歌って大ヒットとなった「城ヶ崎ブルース」と「雨の城ヶ崎」の歌碑が立って いるが、こうした歌心を呼び起こすのも城ヶ崎という場所が持つ力が人に強いインスピレーションをもたらすからだといえるだろう。

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稲取・江戸築城石
  --伊豆の大地の力が凝縮した石の秘密--

inatori  稲取の駅前には、江戸城大修築に用いられた築城石が展示されている。コロのついた台座に載せられた大石には綱がつけられ、これを引い て重さを実感することができる。また岩にノミで穴を開け、そこに木の楔を差し込んでこれに水を含ませ、楔が膨張することによって岩を割る 「矢割り」という当時の切り出しの方法も展示されている。

 室町時代後期の武将で、相模国守護を務めていた上杉定正の家宰であった太田道灌は、康正二年(1456)に江戸に築城を開始し、翌長禄 元年にここを居城とする。当時、沿岸での漁業を生業とする寒村に過ぎなかったこの地に城が築かれたのは、川越城とここを結んで幕府から離 反した足利成氏に対する防衛線を築くためだった。

 太田道灌の江戸城建設開始から147年後の慶長八年(1603)、徳川家康はこの江戸城を本拠として江戸幕府を開き、大規模な江戸城の 修築を各藩に命じる。この時、大量の岩が必要とされ、主に真鶴から稲取にかけて東伊豆に産する「伊豆石」が用いられた。

 伊豆石にはこの東伊豆で産する安山岩系のものと、伊豆の他の地域で産する凝灰岩系のものがあり、前者は緻密な組織構造で硬く、後者は 柔らかくて加工がしやすいという特徴を持っている。江戸城修築に用いられた安山岩系の伊豆石は、硬く加工が難しく、課役大名たちは高度な 技術を持つ石工を伊豆へ送り込み、切り出しの任に当たらせた。

 山から切り出された石は、それを切り出した大名や、石の材質、整製の評価を示す刻印が打たれ、港から船積みされて江戸へと運ばれた。江 戸城の石垣にも、また切り出したまま何らかの事情で遺棄されて伊豆に残る石にもこれらの刻印を見ることができる。

 洋の東西を問わず、太古から、石を加工する仕事は神聖なものとされてきた。紀元前5000年から4000年頃、世界中で巨石文化が花を 開いた。この時期、北欧からイベリア半島の広範な地域に今に残るストーンサークル(環状列石)やメンヒル、ドルメン、チェンバードマウン ド(内部に石室を持つ墳丘)などが作られた。巨石文化を代表するストーンヘンジもこの時代に作られたものだった。また、日本の秋田県の鹿 角にある大湯環状列石や三内丸山遺跡の周辺に点在するストーンサークルもこの時代のものだ。

 さらに時代がやや下って、紀元前2500年頃になると、エジプトのギザの大ピラミッドが建造される。ピラミッドの建造に活躍した石工 たちが、後にその専門技術を伝承する組合を結成し、それがフリーメーソンへと発展したのは有名な話だ。

 現代の技術をもってしても建造するのが困難な巨石建造物は、それを目にした太古の人々にとっては奇跡に思えただろう。そして、それを設 計し築き上げた石工たちは神に近い者として崇拝されたことだろう。そもそも、岩には神秘的な力が宿り、時には神が降り立つ依代になると考 えられていた。イスラムの聖地であるメッカのカアバ神殿には、その中心に黒石があり、これが要石として崇められている。ギリシアのデル フォイの神殿には、その中心にオムパロスの石と呼ばれる大岩があり、その割れ目から立ち上るプネウマと呼ばれる甘い香りのガスを吸った巫 女たちがトランス状態の中で神託をもたらした。日本でも、磐座が神の依代として崇められ、多くの神社が磐座を中心とした神域を形作ってい る。そのように、岩そのものが神聖なものであり、これを扱う石工は神に近い特殊な人間たちとみなされてきた。

 戦国時代以降の日本では、石工は築城の専門家ともなり、風水や陰陽道などの知識も併せ持って、力学的に強く、また霊的な意味でも守りの 固い城を作る専門技術者として戦国大名たちに引き立てられた。比叡山や安土城の基礎を作った「穴太衆(あのうしゅう)」や「肥後石工」は 非常 に高度な工学技術と風水知識を持っていたことで知られている。

 徳川家康には天海僧正というブレーンがいた。天海は天台密教の僧で、風水や陰陽道にも詳しく、江戸を開くにあたり、様々な風水的仕掛け を施したことで知られている。また、家康が亡くなると、東照大権現として日光東照宮に祀り、江戸の守護神としたのも天海の案だった。

 石工という職業に秘められた歴史的な背景や天海の存在を考えると、徳川の300年に渡る栄華を支えることになる江戸城の築城に伊豆石が 用いられたのは、江戸への運搬に便利な場所だったからというだけではなく、江戸城という日本の要を伊豆石が持つ目に見えない超自然的な力 で補強しようとする意図があったのかもしれない。

 伊豆石が切り出された場所は「石丁場」として今も残されている。そうした場所は、岩盤から切りだされ、整形された岩が今でも累々と転が り、独特の雰囲気を漂わせている。その雰囲気に触れると、やはり伊豆石が江戸の築城石として用いられたのは、この石に秘められた伊豆の大 地の力を江戸城の霊的な防御に利用したのではないかという気がますます強くしてくる。

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稲取の石垣の家並みと石仏
  --全国の石工が伊豆に残した痕跡--

inatori  八百比丘尼像(来宮信仰の項参照)やその周囲に配置された道祖神も含め、稲取では集落のあちこちに道祖神や地蔵が置かれているのが目 立つ。また、港を見下ろす斜面に発達した古い集落は緻密な石垣が続く美しい風景を見せてくれる。

 江戸の築城が完了し、さらに江戸市中での石積みを基礎とした街づくりが一段落すると、伊豆に集められた石工たちの仕事が少なくなり、そ のまま伊豆に残った者や元々伊豆で石工の技術を持っていた者たちは、伊豆の土地で石垣を作ったり、地蔵や道祖神を彫るようになった。その 名残が今の素朴な風景を生み出した。

 また、伊豆では地蔵や道祖神は「さえの神」と呼ばれ、子どもたちが遊び道具にしたり、大人が願を掛けるときに子供に命じて、さえの神と 遊びながら願い事をさせたりした。遊びや願いの作法は荒々しく、さえの神は棒で叩かれたり、蹴られたりした。あるとき、旅人がその光景を 見て、地蔵に乱暴をしてはいけないと子どもたちをたしなめたところ、夢の中にその地蔵が現れて、「せっかく子どもたちと楽しく遊んでいた のに、邪魔をしたな」と叱られたという逸話が残されている。八百比丘尼の像もそうだが、摩滅や傷みが激しい像ほど、土地の人達に愛されて きた仏様なのだ。

 どことなく心騒ぐ港の雰囲気とは対照的に、落ち着いた山里の風情が漂う山側の集落をのんびりと散策してみたい。整然とした石垣に出 会ったら、築城石を切り出した藩の刻印や矢割りの跡がないか探し、地蔵を見つけたら、どれだけ子どもたちと遊んだ地蔵さんなのかその摩耗 した体を撫でて想像してみよう。

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どんつく神社
  --縄文の五穀豊穣・子孫繁栄の祈りを伝える個性的神社--

dontuku   男根を象った巨大なご神体を神輿に載せて練り歩く「どんつく祭」は、全国的にもとてもユニークな祭りだ。  このご神体を祀るどんつく神社は、稲取の港を見下ろす岬の上にある。国道135号線を伊東の方から南下してくると、稲取の港が眼下に開 けたかと思うと、その向こうに海に突き出した稲取岬が見える。夏の午後、海霧が沖から押し寄せてくると岬に掛かり、滝雲のように丘を越え ていく幻想的な風景が見られることがある。

 縄文の昔から、こうした岬は聖地とされることが多く、この稲取岬をはじめ東伊豆の岬には、必ずと言っていいくらい縄文時代の遺跡やそれ を受け継ぐ神社や寺がある。

 どんつく神社は、この岬のもっとも高い丘の上にあって、遠く水平線を見つめている。その社が向いているのは、夏至の日の出の方向だ。太 古の太陽信仰では、夏至の太陽は一年でもっとも力強く、五穀豊穣や子孫繁栄をもたらしてくれると信じられていた。太陽信仰を如実に示す環 状列石(ストーンサークル)では、男根型に削られた石神がサークルの中心に置かれ、夏至の朝日の方角を示すキーストーンを照らしたその朝 日が、石神を照らす形になっていた。

 どんつく神社の社は近年改築された新しいものだが、夏至の朝日を拝するその配置は、ずっと継承されてきたものだろう。今では巨大な男根 のご神体が社からむき出しで、夏至の日にはこのご神体に直接朝日が注ぐ形となる。どんつく祭は、6月の中旬に行われるが、本来は夏至の日 に、太陽の力をたっぷり注ぎ込まれたご神体を街へと引き出し、蓄えられたその力をみんなで享受するものだったのだろう。

 祭りの主催者も参加者も、これが何千年も前の縄文の信仰を受け継いでいることなど意識することなく、縄文の人たちもそうであったと想像 されるように、パッションのおもむくまま無邪気に祭りを楽しむ様は、伊豆という土地が秘めたプリミティヴな力を象徴している。

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